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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第三章「轆轤首」

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 ところで、《吾》が《吾》である事を決定出来ないと先述したが、《吾》が《吾》において未決の《吾》である事は、《吾》が此の世に《存在》する拠り所となってゐなくもないのである。即ち自同律に抗ふべく、《吾》が《吾》に対して詭計を巡らせる事で、仮にも『《吾》が《吾》である』と言ひ切れる《吾》の出現を可能ならしめたならば、それは《吾》の詭計の一つの成功を意味する筈で、《吾》が恰も《吾》であるかのやうに振舞ふ欺瞞において、《吾》は《吾》である自覚が出来るのである。それは、然しながら、途轍もなく居心地が悪いのである。《吾》におけるこの二重化は、一方で《吾》が《吾》である事を未決に、また、一方で、仮初の《吾》なる《もの》を据ゑて、それをして、『《吾》が《吾》である』と自覚する詭計を《吾》に施さねばならぬ此の《吾》のまどろっこしさは、詰まる所、何も決してゐない事と同じ故に、《吾》の《吾》なる事が前提の此の現実においての《吾》の有様は、徹頭徹尾、居心地が悪いのである。つまり、《吾》が《吾》なる事が不自然なのである。
――そんな事は初めから解かり切った事ぢゃないか!
 と、自嘲する《吾》に対して、《吾》は、つまり、傀儡の《吾》は、既に形骸化してゐるとはいへ、《吾》の《存在》の有様を二重化する事で、《吾》が《吾》である自同律の陥穽に落ちずに現実をやり過ごしてゐたのであるが、しかし、それが全て詭計なる故に《吾》が《吾》である事が途轍もなく居心地が悪いのである。ならば、それを已めればよいのであるが、《吾》が「単独者」として此の現実に対峙する気力は既に擦切れてゐて、実際、《吾》は疲労困憊の態なのである。さうして、《吾》は出来得れば此の現実から遁れられるのであれば、永劫に遁れ続けたいのである。それは、《吾》が《吾》であるといふ自同律に対して《吾》であると、《吾》をして語らせる事と無関係ではなく、《吾》が《吾》に対峙出来ない事と現実を直視しない事が相関関係にある事は、《吾》が《吾》において《吾》を決定出来ない事から自然の帰結なのである。
――では、《吾》とはそもそも何か?
 といふ疑問が再び頭を擡げるのであるが、それは、詰まる所、《水》の不純物としか言ひやうのない《もの》なのである。人体といふ構造をした《水》の不純物たる「現存在」は、それを煎じ詰めれば、《水》の野心に外ならないのである。それは、川の流れが一つとして同じ《状態》がないやうに、《吾》においても例へば体液が流れる《吾》においても一つとして同じ《状態》の《吾》は《存在》した事はなく、つまり、《水》が変幻自在な如くに、《吾》もまた変幻自在なのである。
――そんな莫迦な!
 と《吾》は呆れるのであるが、実際の処、《吾》の《五蘊場》に明滅する《もの》は、変幻自在で、其処に居座る《吾》は、大概が首ばかりが異様に伸びた轆轤首に外ならず、それと言ふのも、《吾》なる《もの》が、詰まる所、《水》の不純物でしかない事に端を発して変幻自在なるが故なのである。つまり、《吾》は絶えず《吾》から摂動してゐて、ぴたりと静止する事を知らず、絶えず振動してゐる何かなのである。その象徴が脈動する事を「現存在」は死すまで已めないのである。そして、流動する《吾》は、此の現実に対峙するべく、その生贄に《吾》の仮象の首をぶった切って現実に差し出すのである。さうして、《吾》は此の《吾》を絶えず《吾》であるかの如くに装はせる現実に対して、《吾》為らざる《吾》などといふ詭計を凝らして、《吾》が《吾》である事の居心地の悪さを緩衝するのである。
 そもそも《一》者なるといふ事は、絶えず0.99999999……なる《もの》の小数点以下の「九」が無限に続く《存在》が此の現実に《存在》するといふ暗黙の了解のもとにしか《存在》せぬ故に、《吾》が《吾》に対峙する時に、現実は、《吾》が《吾》なる《一》者である以上、無限の底なしの混沌に落っこちる危ふさを《吾》に強ひてゐるのが実際の処なのである。
《世界》は何処も彼処も無限の底無しの穴凹だらけである事は《パスカルの深淵》や野間宏の『暗い絵』の事例を出さずとも明明白白であるが、《吾》なる《もの》は、その本能としてその底無しの穴凹に落っこちる事を避けようと抗ふ偽装を行ふのである。例へば、《吾》は《吾》をして《異形の吾》を拵ゑ、《吾》に不都合な事は全て《吾》為らざる《異形の吾》に肩代はりさせて、《吾》はといふと、のうのうとその《異形の吾》の悪戦苦闘ぶりを高みの見物を決め込んで、Sadistic(サディスティック)な眼差しで眺めては哄笑するのであった。つまり、《吾》は、首のみの《吾》は、仮象の中に閉ぢ籠る事で、一時の安寧を手にするのであるが、然しながら、それは、所詮、《吾》の偽装でしかない事が現実にはお見通しである事に、《吾》はぎくりとし、そして、《吾》は仮象界も既に現実に浸食されてゐる事を知り、愕然とするのである。
 そのやうにして逃げ場を失った《吾》は、絶体絶命でありながら、それでも現実は《吾》を殺す筈はないと心の何処かでは高を括ってゐて、現実がその眦(まなじり)一つ動かさず、《吾》を殺す事に思ひ至らないのである。現実は、《吾》を殺す事なんぞいとも簡単に行ひ、実際、《吾》なる「現存在」は日日必ず《死》んでゐて、《吾》が何時《死》してもそれは全く不思議な事ではなく、《吾》はその事を絶えず不問に付して、《吾》を宙ぶらりんの《状態》に置く事ばかりに詭計を巡らせるのである。しかし、それに対するしっぺ返しとして、自同律の不快を甘受せずにはをれぬ事を「現存在」は心底思ひ知らされる羽目に陥るのである。つまり、《吾》が《一》者として看做される以上、其処に論理的な《インチキ》がある事を無意識にか意識的にかには関係なく、然しながら、矛盾している言ひ方ではあるが、「先験的」に知ってゐて、《一》なる事の《インチキ》に対して《吾》は絶えず騙されてゐるふりをする《もの》なのである。それは、しかし、《吾》の精神には堪へられぬ《もの》で、《吾》に正直な「現存在」は、気が狂ふのが必然で、気がふれない《もの》は面の皮が厚いだけなのであって、極論すれば、此の世の《吾》に気狂ひでない《吾》は《存在》せず、さらに言へば、気狂ひとは未完成の別称に違ひないのである。
 日日、《一》なる《インチキ》を生くる《吾》は、絶えず足下に広がる底無しの無限の穴凹に自由落下する《吾》の幻影を見てしまひ、眩暈を覚えながら何故に此の世に佇立、若しくは屹立するかは、全く解からず、茫然自失の態で《吾》は此の世に《存在》するのである。