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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第三章「轆轤首」

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 これは《吾》もまた、《吾》の眼差しにおいて《吾》といふ《もの》は、漠然とした《状態》が見えるといふハイゼンベルクの不確定性原理に《吾》もまたあって、仮に《吾》の此の世での立ち位置が定まった処で、その時の《吾》の内部で渦動してゐるに違ひない《吾》の情動は、《吾》の予想に反して最早お手上げ《状態》であるに違ひなく、それは、謂ふなれば、《吾》に関して見通しがよければよい程に、《吾》が《吾》を把捉するのは困難極まりなく、結局の所、《吾》は《吾》の外面は確かに捉へたが、しかし、それは単なる《吾》の抜け殻としての《吾》でしかなく、《吾》の「心」は既に把捉した《吾》の抜け殻からまんまと逃げ果せてゐるのである。果たせる哉、《吾》が、例へば、存在論的な罪人であるといふ《吾》を凝結させる核が《存在》すれば、《吾》は或る結晶体として、Fractal的に巨大化して、《吾》の罪人としての結晶体が見定められる筈であるが、しかし、実際の処は、《吾》は漠然と罪人であるとの命題を抱へ込んでゐる《存在》でしかなく、また、《吾》が存在論的罪人である《吾》の根拠が、何時でも《吾》を凝結させる筈はなく、むしろ、《吾》が存在論的罪人といふ事は、《吾》の把捉には紊乱しか齎さないのであった。
――しかし、《吾》は確かに《存在》する。
 と、再び《吾》は《吾》に対して呟くのであるが、だからといって、《吾》が《吾》に対して明瞭になる事などなく、《吾》が《吾》を凝視する場合、それは、闇を凝視してゐる事に外ならず、詰まる所、《吾》はその境界面、つまり、Black holeの地平線が此の世の《存在》には決して見える事がない如くに、《吾》とは存在論的なBlack holeに違ひないのである。
 さて、《吾》を存在論的なBlack holeと名指しした処で、何かが明瞭になる訳はなく、むしろ、《吾》が《吾》に対する混迷は深まるばかりであって、結局、闇が何であるのか見通せない内は、《吾》は《吾》といふ仮面を薄らと闇に浮かび上がらせては直ぐに消える事を繰り返す存在論的Black holeの首であって、それは頭蓋内の脳といふ構造をした闇たる《五蘊場》に明滅する脳細胞の呻吟が解明された処で、《五蘊場》の《状態》を定める事は、ハイゼンベルクの不確定性原理から類推するに、《吾》の輪郭を尚更、曖昧にするのみの、《吾》に対する誤謬を拡大するといふ《吾》の《吾》からの逃亡を論理付けるだけのやうな気がするのである。つまり、
――《吾》は《吾》や?
 と、脳細胞一つ一つの呻吟が解明されたところで、Black holeが直接見えないやうに、《吾》といふ《存在》の謎は残されたままに違ひないのである。
 さて、《吾》がいくら虚勢を張った処で、《吾》が卑怯なる事実は変はる筈もなく、また《吾》は《吾》が卑怯事を自覚する事で、《吾》なる《存在》は、謂はば、Black holeとその連星といふ二重構造を為して、《吾》は《吾》において院政を敷くのである。何故ならば、《吾》が《吾》において二重構造を為してゐる事は、《吾》は《吾》の傀儡を立てる事で、現実の《吾》に降りかかる存在論的な圧迫を《吾》の傀儡に全ておっ被せて、その傀儡の《吾》が見事に圧迫に堪え兼ねて爆発する様を目の当たりにしながら、《吾》は存在論的な圧迫に満ちた現実を卑怯にもやり過ごすのである。
 その傀儡の《吾》を作るのは《吾》においてお手の《もの》で、その自爆する傀儡の《吾》の《存在》なくしては、《吾》は一時も《吾》である事に堪へ得ぬに違ひなく、そして、《吾》は傀儡の《吾》が《吾》の知らぬ間に巨大な権力を手にしてゐる事を、《異形の吾》の哄笑によって知る事になるのであるが、それまで傀儡の《吾》と高を括ってゐた《吾》は、その事態に動揺するのである。つまり、《吾》は傀儡の《吾》を作り出す度毎に気力をすり減らしてゐたのであった。
 それは、傀儡の《吾》が現実に《存在》する存在論的な圧迫に堪へ兼ねて爆発するその傀儡の《吾》に対する眼差しが全てを物語ってゐる。つまり、《吾》は傀儡の《吾》が爆発し、滅ぶ様を胸を痛めずにはゐられぬのである。その為に、傀儡の《吾》が爆発して壊れ消えた後の虚しさを次に作る傀儡の《吾》に反映させ、現実に横たはる存在論的なる圧迫に少しでも堪へ得る傀儡の《吾》を作らうと精を出すのである。それは、つまり、《吾》の傀儡への権力の移譲なのである。
 しかし、その傀儡の《吾》を作る《吾》といふのは、何とも矛盾した《存在》である。その《吾》が傀儡の《吾》を拵ゑるのは、現実において、所謂、存在論的な猶予を求める事に外ならず、《吾》は《吾》の《存在》の決定に対して《吾》は最後の最後まで忌避してゐるのである。つまり、《吾》の《状態》を決定する事は、物質の本源たる素粒子においてハイゼンベルクの不確定性原理に倣ふやうにして、不確定のままに現実をやり過ごせれば、それに越した事はないのである。しかし、現実は絶えず《吾》が《吾》である事を強要する《もの》であり、《吾》の自己決定の先延ばしをする為に《吾》は窮余の策として傀儡の《吾》を作り出してゐた筈なのであるが、それは、《吾》が気付かぬ内に、《吾》と傀儡の《吾》は何時しか入れ替はり、《吾》が現実の矢面に立つといふ本末転倒した有様に見舞はれるのである。
――何故にこんな事態に……。
 と嘆いた処で、既に時は遅きに失し、今度ばかりは傀儡の《吾》、つまり、《吾》は爆発する事は許されない事態に追ひ込まれ、《吾》は、
――嗚呼!
 と、嘆きつつも、常に《吾》の《状態》はといへば、現実は無情にも《吾》が《吾》である事の決定を強要し続け、その度に《吾》は《吾》の何かを喪失してゆくのである。その失はれる《もの》が、何なのかは一向に解らぬまま、《吾》は現実に振り回されながら、《吾》である事を強ひられ続け、《吾》は存在論的に疲弊し切り、その疲弊が臨界を超えた或る刹那、《吾》は仮象の《吾》の首をぶった切って、仮象において自刃するのである。つまり、《吾》が《吾》であると決定される前に自刃して、仮象の《吾》の首をぶった切る事で、《吾》は、《吾》の最後の砦に違ひにない仮象において《吾》を斬り殺す事で、《吾》を未決定の《状態》に置いておくのである。
 それは、《吾》は《吾》であり得ぬといふ自己決定の猶予を《吾》に与へる事で、《吾》は現実の《吾》と対峙せずに、つまり、《吾》が《吾》であるといふ自同律に対して微力ながら抗ふべく、《吾》は《吾》に対して詭計を巡らせるのであった。