審問官第三章「轆轤首」
審問官第三章「轆轤首」
積 緋露雪著
と、ここで、「彼」のノートは破られてゐた。これは彼がわざとさうしたとしか思へぬのであったが、と言ふのも、彼はこの手記で物語を語る気はさらさらなく、思考がしょっちゅう脱線するやうに、彼が手を加へた事は確実でこれらの手記は、わざわざ分断させるやうに繋ぎ合はされていたのであった。つまり、嘗てのサロン仲間との遣り取りは此処でぶつりと切れて、何とも不可思議な「彼」の手記が続くのであった。それは『轆轤首』と題されたものであった。それは、次のやうにして始まってゐた。
…………
現代に生きる「現存在」は遂に轆轤首へと変化してしまったに違ひない。何故かと言へば、例へばPersonal computer(パソコン)のモニター画面を前にして「現存在」が坐せば、それだけで「現存在」は世界中何処へでも、更には何億光年離れた宇宙へまで難なく行ける自在を手にした訳であるが、それは裏を返せば、「現存在」は世界の何処へでも首のみぐっと伸ばして探訪出来るその無様な轆轤首といふ妖怪に変化して、日日、此の世を轆轤首と化した「現存在」共が跋扈してゐると看做せなくもないのであった。
街中を歩いてみれば解かる筈だが、大概の人は、携帯電話のモニター画面に釘付けで、彼らは己が実際には此の街の此処にゐる事には大して重きを置かずに、更に言へば、全く無関心で、只管、此処でない何処かへとぐっと首を伸ばしてモニター画面が映す仮想空間へと己の意識を飛翔させ、つまり、首のみ仮想空間へとぐっと伸ばした轆轤首といふ化け物の異様な姿を衆目に晒してゐるのだが、その衆目もまた轆轤首と化してゐるので、武田泰淳の『ひかりごけ』ではないが、誰もが己の異様な姿には気付かぬのが常なのであった。
成程、現在、現にゐる世界には全く無頓着な彼ら轆轤首達は、また、事故を起こしやすい迷惑者でもあるのだ。彼らの意識や注意力は「吾、此処に在らず」故に、現実の世界では首のみをぐっと伸ばした轆轤首に化けてゐる為に、その足元は覚束ないのは極極当たり前で、尤も、彼ら轆轤首は、自身が轆轤首になんぞに化けてゐるとは全く思ひもよらぬ事で、しかし、傍から見ればモニター画面に釘付けの「現存在」とは、既に轆轤首なのである。轆轤首とは目玉が胴から離れて伸びる蝸牛のゆっくりとした移動の仕方を持ち出すまでもなく、轆轤首は首をぐっと伸ばしてゐる時は、全く歩く事は出来ずに、大概は、坐ってゐるしかないのが、自然の道理の筈なのである。
目玉がぐっと伸びる蝸牛がゆっくりとしか動けないのは、目玉のみが胴から飛び出てゐるが故に、それは自然な事で、目玉と胴との間に距離が生じた事で蝸牛の現在ゐる場所は、目玉で見てゐる視覚の世界と胴で這ってゐる触覚で感じる世界とでは齟齬が生じてゐる筈で、そんな状態では怖くてゆっくりとしか動けないのは至極当たり前なのである。そして、蝸牛がゆっくりと這ってゐる事からすると、蝸牛は胴で感じる触覚で世界認識してゐると看做せなくもないのである。
翻ってモニター画面を前にした「現存在」もまた視覚は、此処ではなく、何処かへと首が伸びてゐるので、モニター画面を見ながら歩行する事が自殺行為でしかないのは、火を見るよりも明らかで、尤も、現代を生きる「現存在」は、己が轆轤首に変化してゐる事に全く気付かぬ故に尚更性質が悪いのである。
此の「現存在」が轆轤首と化してゐる常態を、或る人はモニター画面の前では誰もが平等を獲得したと高らかに宣言するかもしれぬが、「現存在」が轆轤首といふ妖怪へ変化しなければ、その平等は享受出来ない代物で、その仮想空間に順応する「現存在」の変はり行く姿こそが轆轤首なのであった。此の「現存在」の轆轤首化は、更に進化を遂げて更なる何かの妖怪へと変化するかは、不明だが、しかし、「現存在」は、つまり、モニター画面といふ《もの》を前にしての轆轤首と化した「現存在」は、一度その快楽を既に味はってしまったので、最早、元には戻れぬ存在なのでもある。
ならば、その轆轤首とは何なのかと問ふてみれば、暴走する主体、否、暴走する自意識であって、最早、自意識の発露である世界を己がままに変革出来るかもしれぬといふ幻想と、その欲望の進化、つまり、文明の発展を止める事は不可能事でしかなく、また、文明論ほど虚しいものもないので、此処では文明の本質には触れぬが、「現存在」は轆轤首の旨みを知ってしまった故に、最早、一時もモニター画面なしにはをれず、そして、モニター画面といふ厖大な情報が集積され、何時でも欲しい情報がそのモニターから取り出せる仮想空間へとぐっと首を突っ込んで首を伸ばせるだけ伸ばし、首が自在に仮想空間を飛翔する快楽に耽ってゐる「現存在」を見た時の気色悪さは、名状し難き不快なものがあったが、尤も、今では何処を見てもその気色の悪い轆轤首と化した「現存在」ばかりになってしまったのである。そして、既に誰もが轆轤首と化した「現存在」は、それまでの「現存在」として完結してゐた世界=内=存在とは似ても似つかぬ化け物になってしまひ、尤も、化け物と化した「現存在」にとって完結しない世界に首のみぐっと伸ばして、仮想空間を自在に行き交ふ様は、しかし、私には大いなる嫌悪感と虚脱感と屈辱感しか齎さないのであった。
それでは何時の頃より「現存在」は轆轤首へと変化する次第となったのかと問へば、それは、「現存在」が言葉を発したその時に既に轆轤首へと「現存在」が変容してゆく事は、決定してゐたのである。
言葉は、「現存在」の肉体を離れて《吾》以外の《他》に伝播する。つまり、それを戯画風に描き出せば、轆轤首が首をぬうっと伸ばして相手の《他》の耳元で言葉を発する構図にも見えなくもないのである。
言葉を獲得してしまった「現存在」、若しくは「現存在」の遠い先祖である、鳴く事で己の意思を伝へられる動植物達の未来は、現在成し遂げられてゐる仮想空間を媒介として、何時でも《他》の場所にゐる《他》と繋がれる高度情報化社会の出現へと「現存在」が産業革命以来驀進するのは、当然の成り行きだったのである。
しかし、「現存在」による科学技術の発展は、十八世紀に始まった産業革命以降瞠目する程に急速に発展を遂げたのであるが、その前段階としての十五世紀中頃のグーテンベルクの活版印刷を発明した事にその淵源を辿る事も出来得るし、また、それ以前の「現存在」、つまり、エジプト文明の、ギリシア文明の、その他の古代文明の「現存在」にその淵源を求めることも可能で、唯、現代起こってゐる事は、物質を完全に「現存在」の奴隷として看做し、科学技術の発展に各民族が凌ぎを削るその異様さは、人類史上、一際際立ってゐるる或る意味侮蔑すべき時代なのである。。
積 緋露雪著
と、ここで、「彼」のノートは破られてゐた。これは彼がわざとさうしたとしか思へぬのであったが、と言ふのも、彼はこの手記で物語を語る気はさらさらなく、思考がしょっちゅう脱線するやうに、彼が手を加へた事は確実でこれらの手記は、わざわざ分断させるやうに繋ぎ合はされていたのであった。つまり、嘗てのサロン仲間との遣り取りは此処でぶつりと切れて、何とも不可思議な「彼」の手記が続くのであった。それは『轆轤首』と題されたものであった。それは、次のやうにして始まってゐた。
…………
現代に生きる「現存在」は遂に轆轤首へと変化してしまったに違ひない。何故かと言へば、例へばPersonal computer(パソコン)のモニター画面を前にして「現存在」が坐せば、それだけで「現存在」は世界中何処へでも、更には何億光年離れた宇宙へまで難なく行ける自在を手にした訳であるが、それは裏を返せば、「現存在」は世界の何処へでも首のみぐっと伸ばして探訪出来るその無様な轆轤首といふ妖怪に変化して、日日、此の世を轆轤首と化した「現存在」共が跋扈してゐると看做せなくもないのであった。
街中を歩いてみれば解かる筈だが、大概の人は、携帯電話のモニター画面に釘付けで、彼らは己が実際には此の街の此処にゐる事には大して重きを置かずに、更に言へば、全く無関心で、只管、此処でない何処かへとぐっと首を伸ばしてモニター画面が映す仮想空間へと己の意識を飛翔させ、つまり、首のみ仮想空間へとぐっと伸ばした轆轤首といふ化け物の異様な姿を衆目に晒してゐるのだが、その衆目もまた轆轤首と化してゐるので、武田泰淳の『ひかりごけ』ではないが、誰もが己の異様な姿には気付かぬのが常なのであった。
成程、現在、現にゐる世界には全く無頓着な彼ら轆轤首達は、また、事故を起こしやすい迷惑者でもあるのだ。彼らの意識や注意力は「吾、此処に在らず」故に、現実の世界では首のみをぐっと伸ばした轆轤首に化けてゐる為に、その足元は覚束ないのは極極当たり前で、尤も、彼ら轆轤首は、自身が轆轤首になんぞに化けてゐるとは全く思ひもよらぬ事で、しかし、傍から見ればモニター画面に釘付けの「現存在」とは、既に轆轤首なのである。轆轤首とは目玉が胴から離れて伸びる蝸牛のゆっくりとした移動の仕方を持ち出すまでもなく、轆轤首は首をぐっと伸ばしてゐる時は、全く歩く事は出来ずに、大概は、坐ってゐるしかないのが、自然の道理の筈なのである。
目玉がぐっと伸びる蝸牛がゆっくりとしか動けないのは、目玉のみが胴から飛び出てゐるが故に、それは自然な事で、目玉と胴との間に距離が生じた事で蝸牛の現在ゐる場所は、目玉で見てゐる視覚の世界と胴で這ってゐる触覚で感じる世界とでは齟齬が生じてゐる筈で、そんな状態では怖くてゆっくりとしか動けないのは至極当たり前なのである。そして、蝸牛がゆっくりと這ってゐる事からすると、蝸牛は胴で感じる触覚で世界認識してゐると看做せなくもないのである。
翻ってモニター画面を前にした「現存在」もまた視覚は、此処ではなく、何処かへと首が伸びてゐるので、モニター画面を見ながら歩行する事が自殺行為でしかないのは、火を見るよりも明らかで、尤も、現代を生きる「現存在」は、己が轆轤首に変化してゐる事に全く気付かぬ故に尚更性質が悪いのである。
此の「現存在」が轆轤首と化してゐる常態を、或る人はモニター画面の前では誰もが平等を獲得したと高らかに宣言するかもしれぬが、「現存在」が轆轤首といふ妖怪へ変化しなければ、その平等は享受出来ない代物で、その仮想空間に順応する「現存在」の変はり行く姿こそが轆轤首なのであった。此の「現存在」の轆轤首化は、更に進化を遂げて更なる何かの妖怪へと変化するかは、不明だが、しかし、「現存在」は、つまり、モニター画面といふ《もの》を前にしての轆轤首と化した「現存在」は、一度その快楽を既に味はってしまったので、最早、元には戻れぬ存在なのでもある。
ならば、その轆轤首とは何なのかと問ふてみれば、暴走する主体、否、暴走する自意識であって、最早、自意識の発露である世界を己がままに変革出来るかもしれぬといふ幻想と、その欲望の進化、つまり、文明の発展を止める事は不可能事でしかなく、また、文明論ほど虚しいものもないので、此処では文明の本質には触れぬが、「現存在」は轆轤首の旨みを知ってしまった故に、最早、一時もモニター画面なしにはをれず、そして、モニター画面といふ厖大な情報が集積され、何時でも欲しい情報がそのモニターから取り出せる仮想空間へとぐっと首を突っ込んで首を伸ばせるだけ伸ばし、首が自在に仮想空間を飛翔する快楽に耽ってゐる「現存在」を見た時の気色悪さは、名状し難き不快なものがあったが、尤も、今では何処を見てもその気色の悪い轆轤首と化した「現存在」ばかりになってしまったのである。そして、既に誰もが轆轤首と化した「現存在」は、それまでの「現存在」として完結してゐた世界=内=存在とは似ても似つかぬ化け物になってしまひ、尤も、化け物と化した「現存在」にとって完結しない世界に首のみぐっと伸ばして、仮想空間を自在に行き交ふ様は、しかし、私には大いなる嫌悪感と虚脱感と屈辱感しか齎さないのであった。
それでは何時の頃より「現存在」は轆轤首へと変化する次第となったのかと問へば、それは、「現存在」が言葉を発したその時に既に轆轤首へと「現存在」が変容してゆく事は、決定してゐたのである。
言葉は、「現存在」の肉体を離れて《吾》以外の《他》に伝播する。つまり、それを戯画風に描き出せば、轆轤首が首をぬうっと伸ばして相手の《他》の耳元で言葉を発する構図にも見えなくもないのである。
言葉を獲得してしまった「現存在」、若しくは「現存在」の遠い先祖である、鳴く事で己の意思を伝へられる動植物達の未来は、現在成し遂げられてゐる仮想空間を媒介として、何時でも《他》の場所にゐる《他》と繋がれる高度情報化社会の出現へと「現存在」が産業革命以来驀進するのは、当然の成り行きだったのである。
しかし、「現存在」による科学技術の発展は、十八世紀に始まった産業革命以降瞠目する程に急速に発展を遂げたのであるが、その前段階としての十五世紀中頃のグーテンベルクの活版印刷を発明した事にその淵源を辿る事も出来得るし、また、それ以前の「現存在」、つまり、エジプト文明の、ギリシア文明の、その他の古代文明の「現存在」にその淵源を求めることも可能で、唯、現代起こってゐる事は、物質を完全に「現存在」の奴隷として看做し、科学技術の発展に各民族が凌ぎを削るその異様さは、人類史上、一際際立ってゐるる或る意味侮蔑すべき時代なのである。。
作品名:審問官第三章「轆轤首」 作家名:積 緋露雪