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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第三章「轆轤首」

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 意識は自由落下を望んでゐる一方で、吾が仮象の首なき胴体は、天への昇天を夢見、その仮象の首なき胴体を仮に無意識の有様と名指せば、意識は自由落下を、無意識は自由昇天を、つまり、私の意識は物質で、無意識は反物質で出来てゐると看做せなくもないのである。つまり、物質である意識は、重力に抗ふ事なくお気楽に自由落下する事を望み、反物質の首なき胴体が、重力に対して斥力の生じるべき《吾》を志向する事は、実際は、絶えず現実に呪縛されてゐる事の裏返しであって、私は、頭蓋内から絶えずずり落ちる事を志向する意識をして此の現実から逃避してゐるのであった。しかし、それは、
――だが、逃げ場はない!
 といふ事を意識しながらのことなのである。つまり、仰仰しく《パスカルの深淵》などと呼んでゐる此の世に開いた陥穽は、詰まる所、私が現実から遁れるべく仮初に拵へた逃げ場の事で、さうやって常に現実から逃げ出す事、つまり、重力に此の身を任せる自由落下を欣求する愚者こそ、私なのであって、然しながら、己を愚者と名指す事で私は、己の保身を図ってゐるのもまた間違ひのない事であった。それ故に、時に私は、そんな己に我慢がならず、《吾》の仮象の首を自らの仮象の刀でぶった切っては、首のみを重力に任せて自由落下させるのであった。「堕ち行く《吾》」の表象は、しかし、現実の中に自身の身の置き場を見失ってゐる私においては、この上ない悦びを私に齎し、その悦びがあってのみ、私は、《生》を保つことが出来るに違ひないのであった。
――それを他人は卑怯といふのぢゃないかね?
 と、反問する《吾》もまた、私には《存在》してゐて、それが、つまり、上昇志向を持つ仮象の吾が首なき胴体であり、絶えず、重力に抗ふ吾が仮象の首なき胴体は、ひょっとすると、「先験的」に反重力的なる志向を羊水の中で刷り込まれ、そして本能として所持してゐる《もの》なのかもしれず、その反物質的な反重力を志向する吾が仮象の首なき胴体は、然しながら、ちょん切られた首のみを辛うじてぬらぬらと天へ向かって伸ばせるのであって、仮象と雖も、吾が仮象の首なき胴体は、地に縛り付けられてゐる事には変はりがなかったのも確かなのであった。
 さて、地に縛り付けられながら、天へ向かって首なき首を伸ばすその現実に囚はれてゐる吾が胴体は、正(まさ)しくパスカルが名指した「現存在」の有様、つまり、天と地の「中間者」の有様に外ならず、その姿を第三者的な視点で眺めれば、天と地を支へるアトラス神の如き威容な《存在》として、此の天と地を支へる《もの》が出現してゐる筈なのである。つまり、私の無意識と意識が対流してゐるに違ひない私の仮象界において、その仮象界を支へてゐるのが首なき胴体の《吾》であり、さうして此の世に無理矢理にでもこじ開けて出現した仮象界において、吾が《意識体》と化した胴体からちょん切られた首のみの《吾》は、意識と無意識が対流してゐるその仮象界で、只管、自由落下する浮遊感を心行くまで味はひながらも、最早、此の仮象界を支へる首なき胴体との別離を嫌でも感じずにはをれず、其処で、《吾》は不意に《吾》なる事の哀しさを少しは味はふのである。その哀しさは、然しながら吾がちょん切られし首の自由の保障であり、その様な状況下に《吾》を追ひ込む事でしか、《吾》なる事を感覚出来ない感官の麻痺した《吾》は、さうする事で、ちょん切られた切断面の創(きず)の疼きを感じつつも、《吾》からの逸脱を絶えず試みるのであった。
 だからといって、首のみの《意識体》と化した《吾》は、《吾》から逸脱する筈もなく、やる事為す事が全て欺瞞に満ちた《吾》なる《もの》は、その欺瞞なる事をひっぺ返す事で《吾》なる《もの》の本質が透けて見えやしないかと知らぬ内に、躍起と為ってゐるのであったが、首のみと化した《吾》は、玉葱の如く、皮を剥いても再び薄皮が現はれるだけで、幾ら《吾》の欺瞞の皮を剥いだ処で、欺瞞の面の皮は幾重にも重なってゐて、《吾》に決して至る事はないのである。とはいへ、《吾》は、吾が面の皮を剥ぐことを止められぬのであった。といふよりも、止めたくなかったのが本当の処である。何故ならば、内向する事が大好きな《吾》において《吾》なる《もの》の化けの皮を剥がす事の愉しさは、名状し難き《もの》であって、さうして、一枚一枚と剥がしてゆく《吾》の化けの皮は、一方で、《吾》が自ずと脱皮するかの如くに《吾》から剥がれた《吾》の抜け殻を喰らふ時の美味しさといったら格別で、その美味しさは、何《もの》にも代え難く、然しながら、哀しい哉、首のみと化してゐる《吾》は、幾ら己の化けの皮を喰らった処で、喰らったそばから化けの皮は、切り落とされた食道の穴からぽろりと落ちてしまひ、それ故に幾ら仮象界とはいへ、満腹感を得られる事はある筈もなく、また、首のみと化した《吾》が、仮象界にゐる間は、《吾》の化けの皮を剥いでは、それを喰らふ愚行を繰り返す事を蜿蜒としてゐる為か、大概、首がちょん切れた《吾》は《吾》である事に倦んでゐるのである。
 それでは、自由落下に加へて内向する首のみの《吾》は、その無意識と意識が対流してゐる仮象界を佇立して支へてゐる吾が胴体がその視界に見えてゐるのかといへば、そんな《もの》は全く眼中にはなく、首のみと化した《吾》は白目を剥いて、内部のみ凝視する事に現を抜かしてゐるのであった。さうして、首のみと化した《吾》は、《吾》に閉ぢ籠る事で、《吾》はやっと自由を謳歌出来るのであって、しかし、それを他人は卑怯と呼ぶのは十全に承知しながら、《吾》は、《吾》に閉ぢ籠る事を善しとするのである。つまり、《吾》とは、なんと欺瞞に満ちて、矛盾した《存在》であるかと、さうした欺瞞なる《存在》の《吾》を味はひ尽くす事が、《吾》が求める自由なのかもしれなかったのである。
――そんな自由なんぞ糞喰らへ!
 と、さう揶揄するのもまた、《吾》の属性なのは間違ひない事であった。《吾》とは一時も《吾》に対する猜疑心から遁れられる事はなく、何時でも《吾》なる《もの》を直接的に断罪する事を冀ひながら、《吾》が現実から流刑される事を本心から望んでゐる《もの》に違ひなく、此の現実から遁れられるのであれば、《吾》は、如何なる存在論的な刑罰をも堪へ忍ぶ覚悟は出来てゐる《もの》で、むしろ、《吾》は存在論的な罪を担ってゐる証左が欲しくて仕様がないのある。何故ならば、仮に《吾》に関する存在論的な罪が明確に立証出来るのであれば、それはそれで《吾》の有様がきちっと定まり、《吾》が存在論的罪人ならば、《吾》が《吾》の処置の仕方も明確になり、《吾》は何の迷ひもなく、《吾》は邪神の眷属か基督の如き十字架上で磔刑されるべき、罪を背負った《存在》に為り得べき筈に違ひにないのであるが、哀しい哉、《吾》は大概《吾》の眼には摂動する《吾》としてしか把捉出来ず、《吾》が《吾》に関して知り得るのは、曖昧模糊とした《吾》の予想値でしかなく、その為に《吾》と《吾》に関する《吾》の認識は、ずれにずれて《吾》は《吾》の眼には絶えず摂動する《存在》としてしか捉へられないのであった。