審問官第三章「轆轤首」
さて、ところが、《吾》が《他》、若しくは《異形の吾》と一瞥を交はすその刹那、互ひの目は、爛爛と輝いてゐる筈である。《吾》に宿る、《他》、若しくは《異形の吾》に対しての阿諛する己を《吾》は《吾》の内に平伏させ、そして、《吾》は、《他》、若しくは《異形の吾》と一瞥を交はした途端に、好奇心なる《もの》が頭を擡げて、仮象の首がぬらぬらと伸び始め、《他》、若しくは《異形の吾》に漸近するのであるが、その仮象の首は、《他》、若しくは《異形の吾》にある程度近づくと、最早、それ以上は越えられない一線が《存在》するのである。つまり、《吾》が把捉し得る《他》、若しくは《異形の吾》は、その正体を摂動した《もの》としてしか、《吾》には現はれないのである。乃ち、《吾》は、《吾》にとって、摂動した《吾》でしかなく、《吾》が《吾》を捉へた事など全宇宙史上、一度もないに違ひないのである。此処に自同律の不成立の兆しが見えるのであるが、極論すれば、《吾》は《吾》において破綻してゐるのである。「私」において、《吾》も《他》も《異形の吾》も、本来あるべき《物自体》としての《存在》からは、どうしやうもなく摂動した《もの》としてしか捉へられないのである。そして、その摂動においてこそ、《パスカルの深淵》がばっくりと大口を開けてゐて、《吾》が不用意に《他》、若しくは《異形の吾》に向かって歩を進めようものならば、《吾》は確実にその《パスカルの深淵》の陥穽に落っこちて、《吾》は、《吾》から遁れられぬ《パスカルの深淵》といふ陥穽の中に自閉し、哀しい哉、その閉ぢた中で蜿蜒と《吾》は摂動する《吾》と鬼ごっこを続けるのである。
また、《吾》から摂動する《吾》との鬼ごっこをしてゐる時の《吾》程、愉しい《吾》もまた、《存在》せず、その愉しさ故に《吾》は、仕舞ひには《吾》を見失ふのが落ちなのである。この皮肉に《吾》は暫く茫然とし、天を仰ぎながら、遂には哄笑を発する事になるのであったが、其処で不意に《吾》に帰ると、《吾》なる《もの》が首のみの《意識体》とでも呼ぶべき化け物でしかない事を知って愕然とし、《吾》は轆轤首から進化した化け物なのかと訝るのである。
――はて、《吾》は何を追ってゐたのか?
と、それまで摂動する《吾》を追ってゐたに違ひないと思ひ込んでゐた《吾》の不覚に自嘲するのであったが、その摂動する《吾》は《異形の吾》ではなかったのではないかと不審に思ひつつも、
――否、《吾》は《吾》なる蜃気楼を見てゐたに過ぎぬのか?
と、自問するのである。しかし、
――何を猿芝居を演じてゐる? 《吾》は何時でも《吾》の幻しか追はぬではないか?
と、《吾》の内なる声が《吾》の内部で響き渡るのであった。つまりは、首のみと化した化け物の《吾》の内部はがらんどうで、
――さて、此のがらんどうの首のみの《吾》は一体全体どうした事だらう?
と、夢中で摂動する《吾》を追ってゐた鬼ごっこの祭りの後の虚しさに、苦虫を噛み締めながら、只管、《吾》が《吾》なる事の屈辱を味はひ尽くさねばならないのを常としてゐたのである。
ところで、その間、現実に囚はれた吾が胴体は、何をしてゐたかといふと、自由落下を志向する《吾》の首とは反対に、天へ向かって頭のない首をぬらぬらと伸ばし、其処にあるであらう《異形の吾》の首を強奪する詭計を巡らし、字義通り首のすげ替へを企んでゐたのである。そして、その詭計は大概成功裡に終はるのであったが、首をすげ替へた胴体はその《異形の吾》であった首に何時も不満であり続け、再び《吾》が摂動する《吾》を追ひかけ、鬼ごっこが始まると、自ら進んで首を切り離し、再び後悔するのが解ってゐながら天へ向かって首をぬらぬらと伸ばしては、新たな《異形の吾》の首を強奪するのであった。
一方で、胴体に見捨てられた首は、摂動する《吾》と鬼ごっこをしながらも、《吾》は既に見捨てられた首である事は薄薄感じてゐるに違ひなく、首のみの人魂の如き化け物として吾が頭蓋内の闇を中有の間か未来永劫かはいざ知らず、しかし、浮遊してゐる筈なのである。つまり、「私」の頭蓋内の闇には、胴体に見捨てられた首のみの《吾》の亡霊が犇めき、吾が胴体を求めて彷徨してゐるのであった。そして、その吾が頭蓋内の闇に犇めく首の化け物は火事場の馬鹿力宜しく、吾が胴体に見捨てられたことを糧にして、自らが《吾》から摂動する《異形の吾》へと変化し、再び吾が胴へと帰る算段を企む図太さは持ち合はせてゐるらしく、詰まる所、《吾》の首と吾が胴体は、首をすげ替へるとはいっても、首が犇めく渾沌の坩堝の中で堂堂巡りを繰り返すばかりなのであった。
――へっ、堂堂巡りはお前の思考法そのそものぢゃないか!
と、自嘲する《吾》は、然しながら、絶えず、摂動する《吾》を追ひかけては、《吾》を見失ふ愚行を繰り返さざるを得ぬのである。ところが、果たせる哉、《吾》は《吾》の首をすげ替へた処で、《吾》は《吾》である事から遁れられぬ一方で、一瞬でも《吾》から遁れられたCatharsis(カタルシス)を味はひたくて、《吾》は仮象の《吾》の首をちょん切っては、《吾》の首を《異形の吾》の首とすげ替へ、その時に満ち溢れる《吾》ならぬ《吾》といふ一つの愉しみに酔ひ痴れるのであった。つまり、轆轤首なる《吾》には、轆轤首である事が止められぬ呪縛に囚はれて、蟻地獄の巣の中の蟻の如く《吾》が《吾》に踏み迷ふ悪循環から抜け出せぬのであった。
その悪循環は、然しながら、「堕ち行く《吾》」といふ表象を吾が頭蓋内の闇に明滅させるので、私に何とも名状し難き愉悦を齎すのであったが、「堕ち行く《吾》」といふ表象が頭蓋内の闇に明滅した刹那、仮象の《吾》の首はちょん切れてゐて、私はさうなると心行くまで落下する《吾》を堪能せずにはをれなかったのである。
ところで、《パスカルの深淵》を自由落下する仮象の《吾》の首の表象に大地は決して現はれる事はなく、吾が仮象の首は、何処までも自由落下を続け、永劫運動をする事になるのであった。とはいへ、その自由落下といふ永劫運動は、私が永劫の眠りに就けぬ限り、永劫に自由落下する事は、また、あり得ず、何時かはその仮象の《世界》から《吾》は現実に引き摺り出される事になるのは火を見るよりも明らかで、といふより、私は、絶えず現実に《存在》してゐる《吾》を意識しながら、狡(ずる)賢(がしこ)い《吾》は、現実に《吾》は《存在》しながらも仮象の《吾》の首が自由落下する表象を何時も思ひ浮かべる事で、やうやっと現実に《存在》する《吾》を受容出来る卑しい《存在》なのであった。つまり、「堕ち行く《吾》」といふ表象なしには、此の世に一時も《存在》出来ぬ現実逃避者なのである。
――だが何時もお前は後ろ髪を現実に引っ張られ続けて、仮象の《世界》にどっぷりと浸かってゐる事など出来ないんぢゃないかね?
と、自問する《吾》は、哀しい哉、《パスカルの深淵》を自由落下しするしかないのであった。
作品名:審問官第三章「轆轤首」 作家名:積 緋露雪