小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

審問官第三章「轆轤首」

INDEX|15ページ/47ページ|

次のページ前のページ
 

 幽霊を祓はぬ事は、また、或る種の我慢比べでもあり、一夜の夢で私に憑いた幽霊と問答するには、私自身もまた、己の内奥を弄って私の醜悪極まりない部分をも目を逸らさずに直視せねばならず、さうして、私は意を尽くして真剣な議論を夜毎に繰り広げてゐるのである。尤も、その議論は、大概堂堂巡りを繰り返すばかりで、唯唯、消耗するのみの、睡眠する事で、ぐったりと疲れてゐる事しばしばで、それは疲れを取る為に寝る事とは程遠い睡眠で、睡眠の目的からすれば私の睡眠は本末転倒した《もの》なのは間違ひないのである。しかし、私はぐったりと疲れてゐるとはいへ、何処か爽やかな心持で毎日目覚めるのであった。つまり、答へは出ずとも私に憑いた幽霊との果てる事のない議論は、目覚めによってMarathon(マラソン)を走り切った時のやうに何かを達成したかの如き爽快感に私を置くのである。つまり、それだけ私に憑いた幽霊との議論は堂堂巡りを繰り返すとはいへ、白熱した内容の濃い《もの》で、幽霊との議論を深める度に私に憑いた幽霊も私も、多分、《吾》なる《もの》に半歩なりともにじり寄れた錯覚が齎す仮象の爽快感に包まれてゐるに違ひないのであった。つまり、私に憑いた幽霊と私とは、私の夢の虚空で自在に舞ひ切り、それ故にぐったりとしてゐるとはいへ、ただならぬ爽快感に包まれてゐるのである。尤も、それは、覚醒時のほんの一時の事でしかなく、継続する《もの》ではなかったのである。
 さて、一先づ、夢から目覚め、私に憑いた幽霊との議論をお開きにした処から、私は覚醒しながらも、私の思考は、《吾》といふ観念の周りを巡る堂堂巡りを独り相撲を取る如くに行ふ事で、更に《吾》なる《もの》ににじり寄らうと、何の事はない、絶えず自問自答してゐるのであった。とはいへ、覚醒した私の思考は、夢の虚空を私に憑いた幽霊と自在に舞ひながら問答する自由なる気風は全くなく、いづれも杓子定規な思考法の、型に嵌った《もの》に為り易く、それは、私の《存在》する以前に《世界》が既に《存在》してゐる事と無関係ではないのである。つまり、《世界》が私を或る《存在》へと嵌め込み、その型に嵌った不自由の中で、《吾》ににじり寄る思考法を新たに獲得する事を《吾》に強要し、私は、さうなると、唯唯、呆然と《世界》を眺めては、
――此の能面の如き《世界》よ!
 と、私の胸奥で感嘆の声を上げながら、何処から手を付ければよいのかも解からぬ《世界》に対して、私は、数学を用ゐて、世界認識しようと試みるのであった。尤も、世界認識に数学を用ゐる事には、或る限界が存する事は私も承知してゐて、それでも、現代においては、数学によって《世界》を把握するのが、最も解かり易いと思はざるを得ぬのである。
 そして、その数学は、大概、物理数学を指す事が殆どで、成程、巧く物理数学は《世界》を描画してゐるのである。
 ところが、物理数学が描出する《世界》に決定的に欠落してゐる《もの》があるが、それが《吾》の《存在》なのである。つまり、物理数学は、巧く《世界》を描画するが、それは《吾》のゐない《世界》であって、そんな《世界》は、《吾》の誕生以前か死後かの《世界》でしかなく、《吾》が生きた、つまり、《生》なる《吾》が確かに《存在》する《世界》とは、徹底的に主観的なる《世界》でなければならず、ところが、徹底的に主観的な《世界》は、現実の何処にも《存在》する筈もなく、私の覚醒時は、現実といふ私の制御不能な《世界》と私の主観的な《世界》と物理数学的な《世界》の三つ巴の《世界》が絶えず渦巻き、私とはと言へば、そんな渦巻に巻き込まれて懊悩するのみなのであった。
――世界の化かし合ひ!
 と私が覚醒時に世界認識するその《世界》は、徹底的に主観的な吾が《世界》と私の制御不能なざらついた、否、ぬめりとした現実の《世界》が異様に生生しく私に迫りくる現実の《世界》から《世界》を取り分け、その結果現はれる抽象的な《もの》として把握する楽しみに満ちた物理数学の《世界》が、私の頭蓋内の闇たる脳といふ構造をした《五蘊場》で互ひに化かし合ひながら、《世界》は或る印象を私の心に残すのである。それは、《世界》とは把捉したと思った刹那にするりと私の思考からすり抜けて、私が、頭蓋内の闇たる脳といふ構造をした《五蘊場》に張り巡らせた思索的なる網の罠の目の粗さばかりが際立つ、つまり、私の《世界》に対する敗北感のみを絶えず私に印象付けるのであった。尤も、《神》以外、《世界》を思索の網で捕へる事は、不可能な事は自身十分に承知してゐるとはいへ、《世界》は絶えず捉へ損なふ《吾》の不甲斐無さと言ったなら最早、苦笑ひをする外なく、それでも、私は、私の徹底的に主観的な《世界》のみは、手放せずに後生大事にその《世界》の《存在》を承認するのであるが、さうして、私は、《吾》のみに負ふ私の徹底した主観的なる《世界》に、《世界》を認識する糸口の希望を仄かではあるが、秘かに託しながら、
――《世界》は徹底的に主観的な筈である。
 といふ思ひをちっちゃな吾が胸に秘めつつ、《世界》のあかんべえを絶えず見る事になるのである。すると、私はむきになって、首のみがちょん切れてしまった轆轤首と化して、私から絶えず遁走する《世界》を追ひ続けるその時に抜群の威力を発揮するのが物理数学の網の目で、《世界》は、その網の目からは遁れられずにしょんぼりとしてゐるである。とはいへ、私の徹底的に主観的な《世界》と物理数学の網の目に捕へられた《世界》は跨ぎ果せぬ裂け目が《存在》し、私の徹底的に主観的なる《世界》と物理数学が描出する《世界》とは絶えずずれてゐて、その間隙にぬっとその異様な面を出すのが現実といふ名の《世界》なのである。そして、私は、現実に出合ふと首がちょん切れた轆轤首の首を直ぐ様引込めて、《吾》もまた、現実の《吾》を味はふ皮肉に、自嘲しながら、そののっぺりとした感触にぶるっと震へては、《吾》なる《もの》の不気味さを堪へ忍ぶのである。
――それぢゃ、《吾》なる《もの》が《世界》の一端を指示してゐるのではないのかね?
 と自問する事になるのであるが、その時は私は必ず、
――然り。
 と肯うふばかりなのである。つまり、轆轤首へと変化するのを已めた刹那の現実の吾が体軀にこそ、《世界》は宿ってゐるのであって、而も、それは、《世界》で《存在》するには不可欠な事なのは当然の事であり、さうでなければ、現実に《吾》なんぞ《存在》する筈はないのである。
――では何故に《吾》は轆轤首なんぞに態態変化しなければならぬのか?
 と再び最初の問ひに戻る堂堂巡りが始まるのである。