審問官第三章「轆轤首」
しかし、個人で確かに情報を発信出来るがその情報が多くの人の興味に適はなければ、その情報は殆ど誰にも見向きもされずにあるのであるが、仮想空間での有名無名の残酷な格差は、現実以上で、無名の《もの》の情報など誰の興味も引かずに抛ったらかしにされてゐて、誰も無名の情報など必要としてをらず、それでも誰かが見るかもしれないといふ希望なしのままに情報を発信し続ける忍耐に、無名の《もの》は堪え忍んでゐるのである。轆轤首と化して仮想空間を自在に行き交ふ事が可能となったとはいへ、無名の「現存在」は有名な《もの》の情報発信を追跡する事で、時間の大半を費やしてゐるのが現実なのである。この情報発信における絶望的な格差は、さて、解消されるのかと問へば、有名な《もの》が無名な《もの》の発信した情報を無名の《もの》の名前入りで汲み取る事でその絶望的な格差は多少和らぐかもしれぬのである。しかし、それでも有名無名の絶望的な情報発信に関しての格差は解消される事はなく、仮に無名の《もの》が有名な《もの》になる場合は、時代に媚びた言説をする以外に有名への道は残されてゐないのである。
さて、それでは、時代に媚びた言説とは何かと問へば、既存の現実を真の現実として何の疑ひを持たずに絶対の信頼を置き、それは、例へばドストエフスキイ曰く『魂のRealism(リアリズム)』が全く含有されずに出来上がった言語世界の事で、既存の現実、つまり、《世界》に対しては反旗を翻さぬ《もの》のみしか《存在》しない言語で表出された《世界》を、絶対的な地位に祀り上げられた言語世界の事と言へるかもしれぬのである。つまり、《世界》はそれらの言説においては、繰り返しになるが《世界》は既存の《もの》でしかなく、その《世界》に対して何の疑問も抱かぬ無邪気な《存在》ばかりが蠢く《世界》を何の躊躇ひもなく受け容れた場合は、全て、現実に媚びた言説により構築される言語世界に為らざるを得ぬのである。
自己に、つまり、《吾》に対して不信の念を抱いた《吾》は、同時に《世界》に対しても、つまり、現実に対しても不信の念を抱き、初めに森羅万象の全否定があり、其処から、つまり、《世界》を一から創り上げる苦悩に満ちた言説のみ、信に堪へ得る《もの》なのである。
そして、《存在》に懊悩する《存在》は、それだけで既に矛盾してゐるのであるが、《存在》とはそもそも矛盾してゐる《もの》で、その矛盾を引き受けた《存在》は、何事に対しても不信の目を向け――それは《世界》を一から創造せずにはゐられぬ性質の《もの》である――もしさう出来なければ己の《存在》に一時も我慢がならす、絶えず《吾》にも《世界》に対しても憤怒するしかない《吾》は既存の《世界》をぶち壊し、その破壊された《世界》は、《吾》の魂に呼応して現出する《世界》として創り直され、魂の有様によって歪曲するその現実が、さうして創作描写される《世界》は、奇妙に魂に呼応した《もの》として表出され、然しながら、それは夢と違った《存在》として、どうあっても《存在》がのっぴきならぬその《世界》の涯に追ひ詰められるしかないその《世界》での《存在》の有様は、魂が渇望して已まない《世界》であり、現実なのである。つまり、初めに魂ありきなのである。
では、その魂とは何なのかと問へば、《吾》の現状を拒絶した《吾》、つまり、自同律に対して疑問を呈した《存在》の無様で悲惨な傷だらけの《吾》に違ひないのである。
――それって、《吾》に閉ぢ籠った《吾》と何の違ひがあるのかね? 魂を先立たせた《世界》とは、《吾》の渇望する《世界》、つまり、其処では《吾》が万能な《世界》ではないのかい? 仮にさうだとすると、魂のRealismとは《吾》の欲望の捌け口ではないのではないのかね?
との疑問が湧いてくるが、多分、魂に忠実な《世界》は、魂の是か非かを常に問ふ《世界》としてしか《吾》に現出する事はなく、《世界》が《吾》の魂に従属するとは、《吾》の《存在》を絶えず疑ふ疑心暗鬼の目で《世界》を見つめるやうに為らざるを得ぬのは必然なのである。つまり、《吾》の《世界》の立ち位置が魂の状態で如何様にも解釈が可能となり、《吾》の客観的な位置が消滅しまってゐるのである。つまり、主観的な思ひ込みででしか《吾》の《存在》の有様が解からないといふ混乱に《吾》は陥ることになるのである。つまり、魂が黒と思へば《世界》は黒に、白と思へば白に《世界》は変容し、さうして魂が《世界》によって浮き彫りになるのである。言説は、仮にそのやうな《世界》を描出出来れば、《存在》の秘儀が少しは解かるかもしれぬのである。
――《吾》に従ふ《世界》は《吾》において自閉してゐるのぢゃないかね?
と、再び《吾》によって問はれる魂に呼応する《世界》といふ《もの》は、《吾》の嗜好によって、《吾》の好きな《もの》に囲まれた《世界》と何の違ひがあるのかとの疑問に対しては《吾》が轆轤首へと変態するかしないかの違ひではない事が露はになるのである。つまり、魂に呼応する《世界》において、《吾》であり続け、その《吾》は《吾》の魂と呼応する不快なる《世界》に対する事を、その醜悪なる魂を浮き彫りにし、さうなると、《吾》は、その《世界》から遁走出来ぬ《もの》となり、《世界》の変化は、即ち魂の変調を暗示する《世界》が出現するのである。そして、その不快な《世界》から遁走した《もの》が轆轤首なる《吾》なのである。
然しながら、魂が本質に先立つ《存在》とは、果たして「現存在」に想起出来得る《もの》なのかは全く不明で、といふよりも全く想像不可能な《もの》でしかなく、それは、多分に言葉遊びの要素を含んだ《もの》に違ひないのである。つまり、直言すれば、魂が本質に先立つ《存在》など意味不明な《もの》でしかなく、極論すれば、幽霊こそがそれを存分に果たした《存在》に違ひないのである。
――さて、幽霊は《存在》すると思ふかね?
と、すかざす半畳が飛んで来るのである。私は、さうして一人突っ込みをして、さて、困った事に私は幽霊は《存在》する方が此の世が面白いと思ふのであるが、しかし、幽霊の《存在》は意見の分かれる問題に違ひなく、幽霊の《存在》に関しては、徹底して主観の問題に帰し、そして、何時も際物扱ひなのが幽霊の宿命なのである。
作品名:審問官第三章「轆轤首」 作家名:積 緋露雪