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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第三章「轆轤首」

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 と舌打ちし、その理想の《吾》を否定しかかるのであるが、ひと度《五蘊場》に現はれてしまった理想の《吾》は、《異形の吾》と結託して《吾》をのっぴきならぬ処へと追ひ詰めるのである。
 そのやうに理想を掲げる事とは誠に息苦しい事なのである。しかし、さうだからこそ、《吾》は此の世で生きるに値し、さうして何時の日かその理想でもある《異形の吾》を一呑みで呑み込む事を想像しながら、轆轤首として鶴首するのを常とするのである。
 さて、《異形の吾》を一呑みで呑み込む事を想像しながら鶴首してゐる《吾》は、当然の事、仮想空間に《接続》してゐて、仮想空間に、もしかしたならば、《吾》が理想とする《異形の吾》がゐるのではないかとその痕跡を探し回るのであるが、例へばWEB上で自分の名で検索をかけてみると、其処には「私」を愚弄した検索結果しか見当たらず、しかし、それは未だましで、仮に自分の名で検索をかけて検索結果が《存在》するのはまだよい方で、多くの《吾》は仮想空間に自分の名すら《存在》しない事に安心する一方で、がっかりもするのである。
 しかし、そんな事は、はっきり言へば、どうでもいい事で、仮想空間に次第に入り浸りするやうになると、其処は何時しか《吾》の嗜好に合った《もの》ばかりのWEB頁のみを見てゐるのみで、つまり、《吾》は仮想空間に《接続》するのは、其処に《吾》を開いて《他》を発見するのではなく、同属の《もの》に囲まれ閉ぢ籠る為に《吾》は仮想空間に《接続》するやうに為り下がるのである。
《吾》の本質は籠る事である。籠る事が本質故に、《吾》は轆轤首へと変態するのである。それは、尤も《吾》が納得出来る《もの》を仮想空間に籠る事で《吾》の隠れ家として探してはゐるのであるが、つまり、《吾》が《吾》である事を支へて呉れる文言なり方程式なりを其処に見出したいのが山山で、しかし、それらは、その文言を表白した《存在》の《もの》であって、《吾》はその《他》が表白した徹頭徹尾《他》に属する文言や方程式なりに己の思ひを一方的に重ね合はせる事で、《吾》が此の世に独りではないと思ひ込みたくて仕方がないのである。
 つまり、《吾》は《個時空》といふ宿命を死ぬまで受け入れられぬのである。
 さて、其処で、《吾》は《個時空》といふ宿命にありながらも、《吾》には自由はあるかと問ふてみると、此の世の森羅万象は「然り」と答へたい筈であるが、しかし、それは希望的観測に過ぎず、《吾》が《死》より遁れられぬ以上、《吾》には自由はほぼないといふのが真実に違ひないのである。
――しかし、生きてゐる、または、《存在》してゐる内には、自由はある筈さ。
 と、反論が返ってくるに違ひないが、極論すれば、そんな自由は本当に自由と言へるのか大いに疑問の余地が残るのである。つまり、誕生も《死》をも自由選択出来ぬ《もの》に、自由があるのかといふ事である。但し、自殺は例外である。
――しかし、森羅万象は《存在》してゐるではないか? つまり、《存在》してゐる間は、《吾》は自由ではないのか?
 と、再び反論が返ってくるに違ひないのであるが、《存在》は《存在》において既に呪縛されてゐるといふのが、実際の処であらう。つまり、《存在》は、何としても《存在》する事を《吾》に課し、《世界》に適応する事を強要され、仮に此の世に《神》が《存在》するならば、《存在》にあたふたする《吾》を見ては、哄笑してゐるに違ひないのである。
《神》とは、残虐な《もの》である。だから、《吾》は苦し紛れに轆轤首に為らざるを得ぬのである。《吾》は轆轤首に変態する事で、《神》からその姿を隠し、さうして、もしかすると、此の世にあるかもしれぬ自由なる《もの》を渇望しながら、《生》を《神》から略奪して《吾》の《もの》へと取り返す事をして、自由を恰も此の世に《存在》する如くに振舞ひ、そして、《吾》は《吾》に底無しに幻滅するのである。そして、その幻滅出来る事が、自由だと確信し、さうして《吾》は、
―ふっ。
 と自嘲するのである。
 或る在処に《吾》の閉ぢ籠る《場》を見つけた《吾》は、己の嗜好に合った《もの》で埋め尽くし、気が付けば《吾》は全く身動きが取れず、更に己の嗜好に合ったものばかりを集め、どうあっても《吾》は、現代においては、仮想空間に《接続》可能な場合、轆轤首に変態するのは、実存の正しい在り方である。さうまでして、《吾》は、此の《吾》の拡張とも見える仮想空間の拡がりの中では、轆轤首として生き延びる事を、何の迷ひもなく、自ら選択するのである。これは、或る種の穴居動物と何ら変はらぬ事態の到来を意味してゐるのであるが、果たして、《吾》が轆轤首に変態する事で、《吾》に何を齎したのであらうか、と自問自答すると、其処には、現実に対する「現存在」の怯えが反映されてゐて、「現存在」は、絶えず現在に留め置かれる故に、否が応でも独りで現実に対峙しなければならぬ事は、自明の理なのであるが、何時までも煮え切らない「現存在」の身近な現実からは、目を遠ざけ、なるべく《吾》と無関係な現実に目を逸らす為に、《吾》は轆轤首へと変態するのは必然なのである。
 さて、轆轤首の自在感は、《吾》を魅了して已まないのである。何時でも何処でも首さへ伸ばせば、己の求める欲求を果たすべく、仮想空間に溺れる事で、轆轤首へと変態した《吾》は、必ず自ら求める欲求の捌け口を見出し、その出会ひにより、轆轤首の《吾》は、束の間の満足を味はひ、そしてその積み重ねが、《吾》に万能感を齎し、《吾》は閉ぢ籠った故に現実に対してもその万能が揮へると勘違ひして、大概、《吾》が対峙する現実には悉く撥ね返され、《吾》は、さうして己のちっぽけさを厭といふほど味はひ、再び《吾》は、己の嗜好のみで築かれた「城」に籠城し、首のみをびくびくと伸ばして、再び仮想空間へと《接続》し《吾》の仮初の拡張を味はふ快楽に溺れるのである。
 さて、轆轤首と化した《吾》には、自由があるのか、と再び自問自答すると、己が自由であると錯覚する為に、仮想空間で首を伸ばした轆轤首に為り下がってゐるといふのが実際の処だらう。つまり、《吾》は轆轤首に為るのは、既に惰性に為ってゐて、少しでも現実から目を逸らせば、それが退屈であらうが、《吾》は、穴居動物として首ばかり伸ばして、《吾》が伸びた首に相当する《吾》へと拡張したかのやうな錯覚に溺れる事で、意識の拡張が恰も実現したかのやうに《意識=存在》の実現の時代が到来したその勘違ひの中で、「現存在」は、前世代よりも虚しく死んでゆくのである。
――それは本当かね? 現代を生きる「現存在」は前世代の「現存在」よりも虚しいかね?
 と、これまた反論が返ってくるに違ひないが、しかし、仮想現実の登場により個人で情報を発信出来る時代が到来した上に、《吾》は万能で、《意識=存在》が実現した錯覚に誰もが欺かれてゐるのである。