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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第三章「轆轤首」

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 さて、遺伝子Level(レベル)で、例へば人間Aと人間Bの遺伝子の違ひを比べれば、AとBの遺伝子はほぼ同じで、その違ひは一パーセントには遙かに満たない違ひでしかなく、AとBを違った《存在》として隔ててゐるのは、遺伝子Levelでは、何箇所かの遺伝子の配列が極僅か違ふ事でしかないのである。更に言へば、人間Aと人間Bの七割程は《水》であり、其処には、つまり、《水》に関しては何の違ひもなく、生物とは、極論すればAmino酸などの不純物が混じった《水》と看做せなくもないのである。つまり、《吾》と《他》を隔ててゐる《もの》は、生き物の組成物質で見ると、同等と看做せる程にそこには何ら違ひが《存在》せず、《吾》は「先験的」に《存在》する以前の未出現の時点で、《他》と組成を同じくした《もの》として此の世に出現する事を宿命付けられ、換言すれば、《吾》の殆どは、《他》で出来てゐると看做せる筈で、さうすると、《他=吾》といふのは言ひ得て妙な《もの》で、九十九パーセント以上は同じである《吾》と《他》の違ひは、しかし、絶望的に断絶してゐるのである。《吾》にとって《他》は、《異形の吾》の《存在》の様相の一つの解であり、また、《吾》とは無限に違った、《吾》を超越した《存在》として現実には《存在》するのである。つまり、《吾》にとっての《他》は、此の世の涯の一つの表象なのである。また、《他》をその様に解釈しておかないと《吾》は、生涯安寧を得られぬ事となり、つまり、《吾》は、《吾》が《吾》である為の時空が、即ち《個時空》といふ《もの》が生存する為には必須な《もの》として浮き彫りになるのである。
 此処で言ふ《個時空》とは、此の大宇宙に大渦を巻く大きな大きな大きな大渦巻きの時空間の表層部に、小さな小さな小さな時空のカルマン渦が不意に生じたそのカルマン渦を《個時空》と名付け、《吾》の寿命はその小さな時空のカルマン渦たる《個時空》が茫漠とした大宇宙の大河の如き時空の大渦の上に不意に現はれ、そしてその《個時空》が消ゆるまでの事で、実際、例へば人体を例にすれば、人体には、渦状の形をした《もの》がそれとなく幾つも見つかる筈で、《吾》は極論すれば、此の宇宙に《存在》するカルマン渦なのである。そして、多分であるが、《存在》が思考するとは、頭蓋内の闇たる脳といふ構造をした《五蘊場》に、渦が発生してゐる事に違ひなく、例へば「頭の回転が速い」などといふ言ひ方が既に《存在》してゐる事からも、強(あなが)ち思考が《五蘊場》内の渦といふ捉へ方は、奇妙な《もの》ではなく、寧ろ自然な思考の把捉の仕方に違ひないのである。
 cogito,ergo sum.が渦の或る一つの事象に過ぎないとしたならば、渦の解析が此の世を理解する一つの方法であると言ひ得、つまり、素粒子、頭蓋内の闇たる脳の構造をした《五蘊場》、そして、Black holeが不思議と何やら同根の《もの》として見えてくるのであり、これら三つに共通してゐる《もの》の一つにSpinがあり、つまりはそれは渦を暗示してゐなくもないのである。
 ところが渦は、現時点ではストークスの定理によって、回転が直線に変換可能な事を記述してはいるが、然しながら、渦全体を物理学者がよく口にする「美しい」方程式で記述出来ぬままなのもまた事実で、その外にガウスの定理などなど、此の世の秘密たる渦へと肉迫するには物理数学は未だ道半ばと言へなくもないのである。
 さうすると、仮想空間に《接続》した「現存在」が轆轤首の《異形の吾》へと変化してゐる様は、蜷局(とぐろ)を巻いてゐる大蛇にも似て、首をぐるぐると巻く事で、仮想空間の中での自在感を味はってゐる筈で、仮想空間にもまた、時空のカルマン渦が《存在》するのは間違ひなく、成程、Televisionでは字幕が右から左に流れる、つまり、左に回転してゐると看做せ、仮想空間、例へばPersonal computerではMouse(マウス)や手の動きで画面が動く様を見れば、それらは、画面が回転して渦を巻いてゐる証左の一つと看做せるのである。
 大渦の上に浮かぶ小さなカルマン渦の《個時空》を鳥瞰したならば、孔雀の雄がその美麗な羽を大きく拡げた如くに見えるに違ひないのである。そして、それが神の性癖の一つに外ならいと思はずにはゐられぬのである。
――自然は自然を真似る。
 つまり、自然は、Fractalな《もの》なのである。
――本当にさう言ひ切れるのかね?
 と、自嘲する《異形の吾》の声が何処からか聞こえて来さうだが、此の世は多分、渦の入れ子構造をした《もの》として看做せるに違ひなく、渦のFractalとして現前するこの《世界》は、私にとっては超弦理論ならぬ超渦理論と呼ぶべき《もの》として、此の世が私に現前するのである。
――でも、渦である根拠はないんぢゃないのかね?
 と、これまた《異形の吾》の半畳が飛んで来るが、私は、其処で、
――科学が常に正解ではない。
 と、にたりと嗤ってゐる《異形の吾》に対し私は反論し、然しながら、此の世が渦のFractalである根拠が何もない事は《吾》ながら熟知してゐるので、超渦理論などと大袈裟に呼んではゐるが、それは、詰まる所、勘の域を出ない代物に外ならないのである。
 ところで電車に乗ってゐる時にそれは窓外によく見える事象なのであるが、この世の中を物理的に動く《吾》の外界は、無限遠を仮初の中心とした大渦を《吾》の左右に巻いてゐる事に気付く筈である。つまり、距離=過去、若しくは距離=未来と、距離が時間に還元可能な事は物理学の、而もニュートン物理学の基本を知ってゐれば、何ら不思議な事はなく、距離が過去であり未来である二相であるといふのは、例へば距離ある故に過去である外界の《世界》において、《吾》は行くべき目的地を見出すと、現在地から目的地は距離がある、即ち過去である筈の《もの》が、それが未来に到達すべき目的地が見出された刹那、それまで過去であった外界は未来へと反転するのである。これはほんの一例に過ぎぬが、頭蓋内の闇たる脳といふ構造をした《五蘊場》を《吾》の内部、つまり、吾から距離がMinus(マイナス)である故に未来と強引に看做してしまふと、成程、《五蘊場》に明滅する表象群は、因果律が壊れた《もの》として《五蘊場》に生じてゐて、《五蘊場》において、過去の記憶が未来に到達すべき《吾》の姿である事は珍しい事などではなく、寧ろ当たり前で、更に言へば、《五蘊場》において、過去も現在も未来も同相の《もの》に外ならず、仮に《五蘊場》に《吾》が理想としてゐる《異形の吾》が《存在》してゐれば、その理想の《異形の吾》は、去来現を貫き、どの時制においても《存在》し、そして、それは、未来の時制を多分に多く含んだ《存在》として《吾》に対して《存在》してゐるのである。
しかし、その理想の《吾》、即ち《異形の吾》をよくよく観想すれば、全てが曖昧模糊とした《もの》で出来上がってゐて、その理想の《吾》とは、詰まる所、思惟が輻輳しただけの《異形》の《もの》として、《吾》に対して《存在》してゐる事が暴露され、《吾》はその時、
――ちぇっ。