小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

高い授業料

INDEX|1ページ/17ページ|

次のページ
 
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年4月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。今回の事件も、「どこかで聞いたような」ということを思われるかも知れませんが、あくまでもフィクションだということをご了承ください。今回出てきた「警察組織」というのは、ほぼ今の組織とは変わりはないが、ウラの組織」ということで、まったく架空の警察組織が存在しているのは、完全に、フィクションである。

                 弱き君主は、罪悪なり

 冤罪という言葉があるが、警察の捜査などで、状況証拠が、
「犯人はその男だ」
 ということを示していれば、容疑者側に、
「いや、自分は犯人ではない」
 という確固たる証拠がなければどうなるというのだろう?
 日本の場合は、裁判になれば、
「疑わしきは罰せず」
 ということを言われるが、そのかわり、状況証拠が揃ってさえいれば、逮捕、拘留というのは、裁判所に手配して、
「逮捕状」
 というものが降りれば、可能だということだ。
 基本的に、
「逃亡の恐れ」
 であったり、
「証拠隠滅」
 の恐れがある場合などは、裁判所が、逮捕状を発行するということになるだろう。
 いわゆる、
「逮捕令状:
 と呼ばれるものだ。
 しかし、その効力は、当然、
「永遠に」
 というわけではない。
 逮捕後、警察による取り調べが行われ48時間以内に、
「検察官に身柄を預けるか?」
 あるいは、
「釈放」
 しなければいけない。
 そして、検察官に預けられると、検察官の調べがあり、今度は24時間以内に、不起訴にするか、起訴するかを決めないといけない。
 また、警察で48時間以内に、容疑者が、黙秘しているなどのように、調べがうまくおかない場合は、20日間の延長請求ができるのである。
 したがって、その間に、起訴するだけの証拠がなかったり、公判を維持できないと検察官が判断した場合は、
「釈放」
 ということになるのである。
 昔のように、
「警察権力が、国家権力に近いくらい」
 であれば、
「警察というのは、天下御免」
 ということになったであろう。
 特に、
「特高警察」
 などが存在した大日本帝国の時代であれば、
「治安維持法」
 を盾に、なんでもできるといった時代だった。
 特に、
「挙国一致」
 と呼ばれた時代は、
「共産主義」
 であったり、
「反政府主義」
 と呼ばれる連中が、
「テロ行為」
 を起こしたり、
「クーデター」
 を起こしかねない時代だった。
 そんなことにでもなれば、テロ行為というものが横行し、国家の治安は乱れまくってしまう。
 ということになる。
 だから、当時の国家は、
「法律で、治安を守る」
 として、
「政府に盾つく連中を、徹底的に弾圧する」
 という時代だったのだ。
 今の日本は。
「平和主義の自由主義」
 ということになっている。
 確かに、独裁国家の果てがどうなるかということは、
「二十世紀における二つの世界大戦」
 というものが証明しているだろう。
 だが、果たして、そう言い切れるのか?
 特に日本の歴史などを見ていると、分かりそうなものである。
 何といっても、
「弱き君主は、罪悪なり」
 という言葉を聴いたことがある。
 そもそも、歴史を考えると、
「政府や君主が頼りない時代に何が起こったか?」
 ということを考えれば分かるというもの、
 その一番いい例が、
「室町時代から、戦国時代。そして、江戸時代」
 という、中世における、
「封建制度」
 というものを見ていれば、分かるというものだ。
 何といっても、室町時代というと、
「足利幕府」
 というものが、弱体化していったことが問題だった。
 そもそも、足利幕府は、
「南北朝の問題」
 というものを残したまま。時代が進んでいった。
「三代将軍義満」
 の時代に、幕府の最盛期ができ。それまでの諸問題である、
「南北朝の問題」
 そして、
「勢力のある守護大名を抑える」
 ということに成功し、最盛期だったといってもいいだろう。
 しかし、せっかくの義満も、大きな問題を残した。
 まずは、息子の義持との確執から、幕府体制の弱体化を招き、さらに、
「公家に近づいた」
 ということも、大名らに対して、示しがついたのだろうか。
 考えてみれば、
「京に幕府を開く」
 ということは、
「寺社や公家の影響をもろに受ける」
 ということで、武家政治がやりにくくなるとは思わなかったのだろうか?
 しかも、そのせいで、守護大名が、またしても、力を持ったり、内乱を続けることで、幕府の勢力が弱ってくることになる。
 要するに、
「一枚岩ではない」
 ということで、幕府にとって、
「まるで、義満一代の幕府だった」
 といってもいいかも知れない。
 特にひどかったのが、
「八代将軍義政」
 の時代で、この時、有力守護大名であった、
「赤松家の内乱」
 と、
「将軍後継者問題」
 という問題、さらには、
「管領の職をめぐっての、山名家と細川家の対立」
 というものが絡まって、まるで、平安末期に起こった
「保元の乱」
 を彷彿させる体制になった。
 さらに、将軍、義政の正室である、日野富子に子供ができないということで、義政は、弟に将軍職を譲ると確約したそのすぐあと、富子に息子ができるということになった。
 これこそ、その後に起こった、秀吉による、
「秀次事件」
 と同じではないか。
 こちらが先だったとはいえ。
「なんとも浅はかな決断」
 ということで、結果、巻き起こった戦乱が、
「応仁の乱」
 だったのだ。
「11年に渡り、京の都を火の海にして、戦国時代が終わるまで、京都の復興はならなかった」
 というほどの戦乱を巻き起こしたのであった。
 そうなってしまうと、
「幕府に転嫁を治める力」
 というものはない。
 守護大名は、応仁の乱の時に、幕府の命令で、京に集まり、戦を続けていたのだ。
 自分たちの領国では、
「配下の者が、領主のいない間に謀反を起こし、領主にとってかわる」
 という
「下剋上」
 という時代になった。
「鬼のいぬまに」
 ということで、クーデターが頻発するというのは当たり前のことである。
 だから、応仁の乱からこっち、
「クーデターと下剋上の嵐で、配下のものが、大名にとってかわり、戦国大名として君臨する」
 ということが起こってきた。
作品名:高い授業料 作家名:森本晃次