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この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年4月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。今回の事件も、「どこかで聞いたような」ということを思われるかも知れませんが、あくまでもフィクションだということをご了承ください。今回出てきた「警察組織」というのは、ほぼ今の組織とは変わりはないが、ウラの組織」ということで、まったく架空の警察組織が存在しているのは、完全に、フィクションである。
弱き君主は、罪悪なり
冤罪という言葉があるが、警察の捜査などで、状況証拠が、
「犯人はその男だ」
ということを示していれば、容疑者側に、
「いや、自分は犯人ではない」
という確固たる証拠がなければどうなるというのだろう?
日本の場合は、裁判になれば、
「疑わしきは罰せず」
ということを言われるが、そのかわり、状況証拠が揃ってさえいれば、逮捕、拘留というのは、裁判所に手配して、
「逮捕状」
というものが降りれば、可能だということだ。
基本的に、
「逃亡の恐れ」
であったり、
「証拠隠滅」
の恐れがある場合などは、裁判所が、逮捕状を発行するということになるだろう。
いわゆる、
「逮捕令状:
と呼ばれるものだ。
しかし、その効力は、当然、
「永遠に」
というわけではない。
逮捕後、警察による取り調べが行われ48時間以内に、
「検察官に身柄を預けるか?」
あるいは、
「釈放」
しなければいけない。
そして、検察官に預けられると、検察官の調べがあり、今度は24時間以内に、不起訴にするか、起訴するかを決めないといけない。
また、警察で48時間以内に、容疑者が、黙秘しているなどのように、調べがうまくおかない場合は、20日間の延長請求ができるのである。
したがって、その間に、起訴するだけの証拠がなかったり、公判を維持できないと検察官が判断した場合は、
「釈放」
ということになるのである。
昔のように、
「警察権力が、国家権力に近いくらい」
であれば、
「警察というのは、天下御免」
ということになったであろう。
特に、
「特高警察」
などが存在した大日本帝国の時代であれば、
「治安維持法」
を盾に、なんでもできるといった時代だった。
特に、
「挙国一致」
と呼ばれた時代は、
「共産主義」
であったり、
「反政府主義」
と呼ばれる連中が、
「テロ行為」
を起こしたり、
「クーデター」
を起こしかねない時代だった。
そんなことにでもなれば、テロ行為というものが横行し、国家の治安は乱れまくってしまう。
ということになる。
だから、当時の国家は、
「法律で、治安を守る」
として、
「政府に盾つく連中を、徹底的に弾圧する」
という時代だったのだ。
今の日本は。
「平和主義の自由主義」
ということになっている。
確かに、独裁国家の果てがどうなるかということは、
「二十世紀における二つの世界大戦」
というものが証明しているだろう。
だが、果たして、そう言い切れるのか?
特に日本の歴史などを見ていると、分かりそうなものである。
何といっても、
「弱き君主は、罪悪なり」
という言葉を聴いたことがある。
そもそも、歴史を考えると、
「政府や君主が頼りない時代に何が起こったか?」
ということを考えれば分かるというもの、
その一番いい例が、
「室町時代から、戦国時代。そして、江戸時代」
という、中世における、
「封建制度」
というものを見ていれば、分かるというものだ。
何といっても、室町時代というと、
「足利幕府」
というものが、弱体化していったことが問題だった。
そもそも、足利幕府は、
「南北朝の問題」
というものを残したまま。時代が進んでいった。
「三代将軍義満」
の時代に、幕府の最盛期ができ。それまでの諸問題である、
「南北朝の問題」
そして、
「勢力のある守護大名を抑える」
ということに成功し、最盛期だったといってもいいだろう。
しかし、せっかくの義満も、大きな問題を残した。
まずは、息子の義持との確執から、幕府体制の弱体化を招き、さらに、
「公家に近づいた」
ということも、大名らに対して、示しがついたのだろうか。
考えてみれば、
「京に幕府を開く」
ということは、
「寺社や公家の影響をもろに受ける」
ということで、武家政治がやりにくくなるとは思わなかったのだろうか?
しかも、そのせいで、守護大名が、またしても、力を持ったり、内乱を続けることで、幕府の勢力が弱ってくることになる。
要するに、
「一枚岩ではない」
ということで、幕府にとって、
「まるで、義満一代の幕府だった」
といってもいいかも知れない。
特にひどかったのが、
「八代将軍義政」
の時代で、この時、有力守護大名であった、
「赤松家の内乱」
と、
「将軍後継者問題」
という問題、さらには、
「管領の職をめぐっての、山名家と細川家の対立」
というものが絡まって、まるで、平安末期に起こった
「保元の乱」
を彷彿させる体制になった。
さらに、将軍、義政の正室である、日野富子に子供ができないということで、義政は、弟に将軍職を譲ると確約したそのすぐあと、富子に息子ができるということになった。
これこそ、その後に起こった、秀吉による、
「秀次事件」
と同じではないか。
こちらが先だったとはいえ。
「なんとも浅はかな決断」
ということで、結果、巻き起こった戦乱が、
「応仁の乱」
だったのだ。
「11年に渡り、京の都を火の海にして、戦国時代が終わるまで、京都の復興はならなかった」
というほどの戦乱を巻き起こしたのであった。
そうなってしまうと、
「幕府に転嫁を治める力」
というものはない。
守護大名は、応仁の乱の時に、幕府の命令で、京に集まり、戦を続けていたのだ。
自分たちの領国では、
「配下の者が、領主のいない間に謀反を起こし、領主にとってかわる」
という
「下剋上」
という時代になった。
「鬼のいぬまに」
ということで、クーデターが頻発するというのは当たり前のことである。
だから、応仁の乱からこっち、
「クーデターと下剋上の嵐で、配下のものが、大名にとってかわり、戦国大名として君臨する」
ということが起こってきた。
弱き君主は、罪悪なり
冤罪という言葉があるが、警察の捜査などで、状況証拠が、
「犯人はその男だ」
ということを示していれば、容疑者側に、
「いや、自分は犯人ではない」
という確固たる証拠がなければどうなるというのだろう?
日本の場合は、裁判になれば、
「疑わしきは罰せず」
ということを言われるが、そのかわり、状況証拠が揃ってさえいれば、逮捕、拘留というのは、裁判所に手配して、
「逮捕状」
というものが降りれば、可能だということだ。
基本的に、
「逃亡の恐れ」
であったり、
「証拠隠滅」
の恐れがある場合などは、裁判所が、逮捕状を発行するということになるだろう。
いわゆる、
「逮捕令状:
と呼ばれるものだ。
しかし、その効力は、当然、
「永遠に」
というわけではない。
逮捕後、警察による取り調べが行われ48時間以内に、
「検察官に身柄を預けるか?」
あるいは、
「釈放」
しなければいけない。
そして、検察官に預けられると、検察官の調べがあり、今度は24時間以内に、不起訴にするか、起訴するかを決めないといけない。
また、警察で48時間以内に、容疑者が、黙秘しているなどのように、調べがうまくおかない場合は、20日間の延長請求ができるのである。
したがって、その間に、起訴するだけの証拠がなかったり、公判を維持できないと検察官が判断した場合は、
「釈放」
ということになるのである。
昔のように、
「警察権力が、国家権力に近いくらい」
であれば、
「警察というのは、天下御免」
ということになったであろう。
特に、
「特高警察」
などが存在した大日本帝国の時代であれば、
「治安維持法」
を盾に、なんでもできるといった時代だった。
特に、
「挙国一致」
と呼ばれた時代は、
「共産主義」
であったり、
「反政府主義」
と呼ばれる連中が、
「テロ行為」
を起こしたり、
「クーデター」
を起こしかねない時代だった。
そんなことにでもなれば、テロ行為というものが横行し、国家の治安は乱れまくってしまう。
ということになる。
だから、当時の国家は、
「法律で、治安を守る」
として、
「政府に盾つく連中を、徹底的に弾圧する」
という時代だったのだ。
今の日本は。
「平和主義の自由主義」
ということになっている。
確かに、独裁国家の果てがどうなるかということは、
「二十世紀における二つの世界大戦」
というものが証明しているだろう。
だが、果たして、そう言い切れるのか?
特に日本の歴史などを見ていると、分かりそうなものである。
何といっても、
「弱き君主は、罪悪なり」
という言葉を聴いたことがある。
そもそも、歴史を考えると、
「政府や君主が頼りない時代に何が起こったか?」
ということを考えれば分かるというもの、
その一番いい例が、
「室町時代から、戦国時代。そして、江戸時代」
という、中世における、
「封建制度」
というものを見ていれば、分かるというものだ。
何といっても、室町時代というと、
「足利幕府」
というものが、弱体化していったことが問題だった。
そもそも、足利幕府は、
「南北朝の問題」
というものを残したまま。時代が進んでいった。
「三代将軍義満」
の時代に、幕府の最盛期ができ。それまでの諸問題である、
「南北朝の問題」
そして、
「勢力のある守護大名を抑える」
ということに成功し、最盛期だったといってもいいだろう。
しかし、せっかくの義満も、大きな問題を残した。
まずは、息子の義持との確執から、幕府体制の弱体化を招き、さらに、
「公家に近づいた」
ということも、大名らに対して、示しがついたのだろうか。
考えてみれば、
「京に幕府を開く」
ということは、
「寺社や公家の影響をもろに受ける」
ということで、武家政治がやりにくくなるとは思わなかったのだろうか?
しかも、そのせいで、守護大名が、またしても、力を持ったり、内乱を続けることで、幕府の勢力が弱ってくることになる。
要するに、
「一枚岩ではない」
ということで、幕府にとって、
「まるで、義満一代の幕府だった」
といってもいいかも知れない。
特にひどかったのが、
「八代将軍義政」
の時代で、この時、有力守護大名であった、
「赤松家の内乱」
と、
「将軍後継者問題」
という問題、さらには、
「管領の職をめぐっての、山名家と細川家の対立」
というものが絡まって、まるで、平安末期に起こった
「保元の乱」
を彷彿させる体制になった。
さらに、将軍、義政の正室である、日野富子に子供ができないということで、義政は、弟に将軍職を譲ると確約したそのすぐあと、富子に息子ができるということになった。
これこそ、その後に起こった、秀吉による、
「秀次事件」
と同じではないか。
こちらが先だったとはいえ。
「なんとも浅はかな決断」
ということで、結果、巻き起こった戦乱が、
「応仁の乱」
だったのだ。
「11年に渡り、京の都を火の海にして、戦国時代が終わるまで、京都の復興はならなかった」
というほどの戦乱を巻き起こしたのであった。
そうなってしまうと、
「幕府に転嫁を治める力」
というものはない。
守護大名は、応仁の乱の時に、幕府の命令で、京に集まり、戦を続けていたのだ。
自分たちの領国では、
「配下の者が、領主のいない間に謀反を起こし、領主にとってかわる」
という
「下剋上」
という時代になった。
「鬼のいぬまに」
ということで、クーデターが頻発するというのは当たり前のことである。
だから、応仁の乱からこっち、
「クーデターと下剋上の嵐で、配下のものが、大名にとってかわり、戦国大名として君臨する」
ということが起こってきた。