異常性癖の「噛み合わない事件」
「踏切が閉まりそうな状態で、このままダラダラしていると、また二十分待たないといけない」
ということで、ここまでくるにも数十分かかっているとすれば、
「少しでも無理して先に進もう」
と考えるだろう。
しかし、実際にその状態で、先に進もうとして、前の車がまだ踏切を出ていない場合、「前に行けないどころか、下手をすれば、後ろからも車が来ていて、にっちもさっちもいかない」
ということになるだろう。
そうなってしまうと、
「電車を止めるしかない」
ということになる。
止めなければ、電車が車に突っ込んで、大惨事ということになるだろう。
けが人はおろか、死人が出てしまうと、
「運転手の人生が終わった」
ということになるかも知れない。
このような事故は、実際に結構あるというもので、それを分かっていながら、
「旧国鉄は、検証もしていない」
ということであろうか?
素人が単純に考えただけでも、
「原因から導かれる結果というもの」
が分かるということなので、
「これを、鉄道会社は仕方がないということで片付けていいものだろうか?」
ということになるのだ。
今では、高架になったり、電車が高架橋のような形になったりで、踏切も減ってきた。
しかも、鉄道法で。
「新しい踏切を作るということが許されない」
ということになっているので、踏切というのは、減って行くばかりだといってもいいだろう。
確かに、踏切というのは、
「煩わしいだけしか感じない」
という人も多いだろうし、人によっては、それまで生きてきた人生の中で、かなりつらいことがあったと思っている人は、
「踏切の音を聞いただけで、勝手に身体が、線路の方に向かっていく」
というような衝動に駆られるという、トラウマを感じている人もいるかも知れない。
それくらい、
「遮断機の音」
であったり、
「踏切の照明」
というのは、
「人間に、トラウマとして、衝動的行動を残すものだ」
といえるのではないだろうか?
ただ、中には、
「踏切の音が、時代を作ってきた」
と感じる人もいたりして、
「なくなっていくのは、寂しい」
と感じる人もいるだろう。
それだけ、世の中にはいろいろな考え方や事情というものがあり、
「人のかずだけ、事情や考え方がある」
といっても過言ではないだろう。
昭和のドラマなどを、ケーブルテレビなどで見ると、
「電車の線路のそばの二階建てのアパートに住んでいるような人が多かった」
というイメージがある。
当然、家賃も安かっただろうし、若い人が所帯を持つ前であったり、新婚夫婦が借りるアパートとして、今からは考えられないような、
「四畳半一間」
という、いわゆる、
「1DKのアパート」
を想像してしまう。
部屋にはトイレも風呂もない。トイレは、共同トイレであったり、風呂というと、
「銭湯に通う」
というものであろう。
今では、
「銭湯といえば、スーパー銭湯」
というものしか想像ができない人が多い。
「脱衣所の入り口は男女それぞれあり、中に入ると、目の前に、男湯、女湯それぞれの受付として、
「番台」
というものがあり、風呂屋の亭主か、女将さんが座っているのが定番だった。
昭和名物として、ビン牛乳や、コーヒー牛乳を飲むというのが、これも定番である。腰に手を当てて飲むそのスタイルは、いかにも、
「昭和の銭湯」
というものだった。
中に入れば、大きな浴槽のその向こうに、
「富士山の絵」
が描かれているのも、当たり前ということで、
「銭湯と藤さんとでは、切っても切り離せない関係だ」
といってもいいだろう。
そして、銭湯というと忘れてはいけないのが、表から見た時の、銭湯の建物の後ろにそびえる、
「大きな煙突」
というものであった。
煙突は、煙をモクモクと挙げているが、もし、今どこかにいきなり銭湯が出現すれば、意識してその煙を見るだろうが、当時は当たり前のことだったので、いちいち空に向かって伸びる煙を意識する人は少なかったことだろう。
「洗面器にタオルと石鹸などを入れて、通う銭湯」
いかにも、
「昭和におけるフォークソングの時代」
ということの代表的なシーンだったのではないだろうか?
そんな時代は、今と違って、駅前というのが、結構にぎわっていたりしたものだ。
これも、
「駅の老朽化」
ということで、平成以降に結構立て直したりしたところも多い。
特に、
「新幹線の駅ができる」
ということで、立て直しに伴っての、立ち退きなども増えてきたことで、
「駅前は、昔のような賑わいはまったくなくなってきた」
といってもいいだろう。
特に、
「最近の駅前では、赤ちょうちんと言われる、
「焼き鳥屋」
「居酒屋」
さらには、
「炉端焼き屋」
などという言葉はまったく聞かなくなったといってもいいだろう。
「炉端焼き」
という言葉を聴いて、
「なんだそれ?」
という人も少なくはない。
中年以上の人くらいでないと、ピンとこないことだろう。
時代が進むと、
「便利になってきている」
ということはいえるのだろうが、それよりも、
「古き良き文化が失われる」
と思っている人も多いだろう。
駅前が閑散としてくるというのも時代の流れというもので、これは、
「駅前」
というものに限ったことではない。
時代が進めば、次第に駅前というものが、発達してくるのと裏腹に、
「いいものが失われる」
ということを誰も意識しないというものか。
これは、今に始まったことではなく、昭和時代にも大きな問題であった。
実際には、その時代の思い出などという生易しいものではなく、
「実際に住んでいるところを追われる」
という事態に追い込まれるということだってあったのだ。
こちらも、
「インフラ整備」
というものが問題となってきたわけで、特に、
「ダム建設」
などというのはひどいもので、
「過疎化した村が、ダムの底に沈んでしまう」
ということが平気で行われていた。
そこには、ゼネコンと政府の癒着というものが、あったとかなかったとか。
今となっては分からない。
もちろん、表に出て問題になったことも少なくはないだろうが、それこそ、
「氷山の一角」
ということで、どうしようもない状態となったといってもいいだろう。
「時代は繰り返す」
というが、それは、
「ブームや流行」
というだけではなく、限界のあることの限界に達すれば、
「一度壊さなければいけない」
という事態になってくるのではないだろうか?
通り魔殺人
時代というのは、想像以上に長かったり、短かったりする。実際に、本当の時間の長さがその時々で違うのか、それとも、人それぞれに感じ方が違うのか?
いろいろな考え方もあるが、しょせん、人のことが分かるわけもなく、あくまでも感じているその人一人一人で違っているのだ。
だから、
「長かったり短かったり」
と時間を曖昧に感じるのであれば、それは、感じているその人が、
「精神状態によって、感じ方が変わってくる」
ということに違いない。
作品名:異常性癖の「噛み合わない事件」 作家名:森本晃次