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死ぬまで消えない十字架

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この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年4月時点のものです。

                 城址公園

 昔から、城址公園というと、
「桜の名所」
 ということで有名なところが多い。
 戦国時代には、
「コンビニの数よりも多い」
 と言われたほどの城が、全国に乱立していた。
 城と言っても、皆さんが、知っている、
「天守というものを持った城」
 というものは、城郭と呼ばれる、近代的な建築構造によって築かれた、
「日本独自の建物」
 と言ってもいいだろう。
 織豊時代から、江戸時代に掛けての城というと、
「攻守に長けた城」
 という意味よりも、
「領主の権力の象徴」
 という意味であったり、
「執務を行うところ」
 という意味合いが大きかった。
 だから、江戸時代になってから、豊臣政権が滅んだことにより、
「やっと訪れた、戦のない時代」
 ということで、徳川幕府の命として、
「一城一国令」
 というお触れが出されたのであった。
 あくまでも、
「執務を行う」
 ということと、
「領内においてだけの、大名の権威を示す」
 という意味でのお城を一つだけ持てるということであった。
 だから、
「江戸時代以降に建てられたお城には、天守が建造されることはまれだ」
 ということであった。
「城を作る」
 あるいは、
「城を修繕する」:
 ということも、そのすべては、
「幕府に申し出て、許可をもらわないといけない」
 ということになっている。
 しかも、その内容に偽りが合ったりすると、
「謀反を企んでいる」
 ということになり、
「改易などの処罰が下る」
 ということで、江戸時代の最初の50年くらいの間では、かなりの大名が改易になったものであった。
 特に、
「三河時代からの譜代」
 と言われる大名であったり、下手をすると、
「将軍の弟」
 であっても、特別ではなかったのだ。
 というのは、
「三河以来の譜代」
 ということで、徳川家康の、
「側近中の側近」
 と言われた、本多正信の息子である。本多正純が、
「城の修復などをネタにして、起こった、宇都宮釣り天井事件」
 というものをきっかけにして、
「将軍暗殺を企んだ」
 ということで、改易させられた。
「派閥争いに負けた」
 とも言われている。
 これは、二代将軍秀忠の時代であったが、今度は、三代将軍家光の時代になると、今度は、弟の忠長(駿河大納言)に対して、素行の悪さから、何度か、処罰の対象となったが、それでも、持ちこたえていたのだが、最後には、
「そうもいかない」
 ということで、切腹させられるということになった。
 もし、史実の通りに、
「素行の悪さ」
 ということであれば、処罰も当たり前なのだが、そうでないとすれば、
「悲劇の武将」
 と言ってもいいだろう。
「春日局がいなければ、将軍になっていたかも知れない」
 という人物であった。
 家光の時代になると、さすがにここまで改易が続けば、どこの大名も、
「幕府に逆らう」
 などという考えを持つところは、一つもなかったに違いない。
 城において、江戸時代前に建設されたところであっても、
「幕府に白い目で見られたくない」
 という理由で、
「天守を取り壊す」
 というところも、たくさんあったのだ。
 そんなことから、城というものには、
「天守がない」
 という城も実際には多い。
 そもそも、城というのは、その歴史は古い。元々は、環濠集落と呼ばれるものが、古代である、弥生時代に作られたことから、その歴史があると言ってもいいかも知れない。
 元々、日本の歴史で最初となる縄文時代は、狩猟ということで、獲物を追っての生活ということで、皆が協力しての生活だったが、そのうちに、
「稲作」
 というものを覚えたことで、今度は、
「土地に根を張った生活」
 というものが、主流となってきた。
 そのために、大切なものとして、
「新鮮な水」
 というものが問題になってくる。
 今までのように、
「獲物を求めての、遊牧とは違い、土地というものが、その根底にある」
 ということで、
「土地をめぐる争い」
 というものが起こってくるのだ。
 新しい土地を侵略し、どんどん、環濠集落が広がっていき、次第にその中で人が多くなってきたりすると、そこで、集落内の争いというのも起こってくる。
 さらに、まわりに敵対するところが出てくると、
「敵に攻められないための、要塞」
 というものが必要になるということだ。
 そのために、まわりから攻めてこられないように、塀を作り、入口は、門に制限し、その門を守るために、砦を築いて、敵から攻められれば、攻撃できるようなものが必要にいなる。
 それが、いわゆる、
「城」
 というものの始まりといえるのではないだろうか?
 古代には、山城が主流であった。
 特に、飛鳥時代に起こった、
「大化の改新」
 のちょうどその時、日本が貿易をしていた、朝鮮半島の国である、
「百済」
 が、同じ朝鮮半島の隣国である、
「新羅」
「高句麗」
 と言った両国からの侵略を受け、滅亡の危機に至った時、その百済から、救援の申し出があったことから。当時の政府では、
「朝鮮半島に、援軍を出した」
 ということであった。
 しかし、実際に朝鮮半島に送った援軍は、総崩れとなり、大敗を喫するという憂き目にあったのだった。
 百済は滅ぼされてしまい、百済、高句麗としては、
「日本にも、侵略の刃を」
 ということで攻めてくると踏んで、筑紫の国に、防御を築くことにした。
 そのために、筑紫の国には、
「古代山城」
 というものが多数つくられ。そこで、
「国家の防波堤」
 という役目を果たすことになったのだ。
 実際に、朝鮮から攻めてこられることはなかったが、
「大化の改新」
 はなかなか進まず、結局は、
「基礎はできたが、実際に思っていたような改革ができたわけではなかったのであった。
 そんな時代が過ぎ去り、時代は、奈良時代、平安時代へと引き継がれる。
 基本的には、奈良時代というと、神社などの影響が強かったり、平安時代には、今度は、藤原氏を中心とした貴族の力が強かったりして、そこまで、城が必要な時代ということでもなかった。
 実際に、
「城の原型」
 と言われるようなものが造られ始めたのは、
「南北朝時代」
 という時期くらいであり、その時代には、それこそ、山の上に砦を築いたというようなところが多かったといえるだろう。
 楠木正成の作った、
「赤坂城」