Clop
おれが形だけ声に出すと、小向はフードを目深にかぶり直して、小走りで空き地の中へ入っていった。おれは肩をすくめると、歩き続けた。小向は、幼いころから知っている。それこそ、母親に抱えられていたころから。スーパーのレジで、後ろに並んでいるおれと目が合い、小向は母親の首元に隠れるように縮こまったが、ひょいと顔を出して笑顔になった。母親の肩を使って、いないいないばあをしていることに気づいたおれは、レジの順番が来るまでそれに付き合い、やたらと体を揺することに気づいた母親が振り向いて、それ以来顔を合わせると世間話をする仲になった。
しかし、小向は中学校に入ってから、ずっとあんな感じだ。遼一の反抗期を思い出す限り、一般的な中学生が辿る道を通っているだけにも見える。ただ、遼一はいくら反抗期であっても、外向きには普通に振舞っていた。
山岸や室田から聞いた情報だと、小向は夜遅くに空き地にいたり、コンビニで仲間らしき数人とたむろしていたり、あまり心象はよくないらしい。彼らより古くから小向のことを知るおれからすれば、たまには挨拶が返ってくることもあるし、そんな悪い奴じゃないと言いたいところなのだが。確信はないのだから、その言葉自体も無責任だ。
家に辿り着いて玄関のドアを開けると、おれが靴を脱ぐよりも先に、妻の美都子がワイングラス片手にキッチンから顔を出した。
「おかえり。安川さん元気だった?」
「相変わらずだよ。あの口の軽さは、危なっかしいね。週末にゴルフ店を回ることになった」
おれは鞄を廊下に置くと、スーツの上着を着たまま伸びをした。資料を作らなければならない。
「仕事が舞い込んできたから、ちょっと頑張るわ」
そう言って、おれはキッチンをやり過ごすと、書斎に入った。ノートパソコンと睨めっこをして一時間ぐらいが経ったとき、書斎の壁が形だけコンコンとノックされて、お盆を持った美都子が言った。
「結構、がっつり残ってたのね」
「店に入ってから、電話が来たんだよ」
おれがそう言って顔を上げると、美都子はお盆に載った小皿をひょいと持ち上げて、おれの目の前に置いた。
「これで、指の滑りがよくなるんじゃない?」
「ありがとう」
おれは、小皿の中身を見て、口角を上げた。スライスされた玉ねぎが載った、オイルサーディン。お気に入りの夜食。
「ちょっと、休憩だ」
おれが猫背になっていた体を起こすと、美都子はパソコンの画面に映る資料をちらりと見て、くすりと笑った。
「グラフの色 、かなり派手だね」
おれは肩をすくめた。
「役員は、スーツを着た幼稚園児みたいなもんだからな。バカでも分かるような資料にしないと」
「それだと、バカでも理解できる内容しか伝わらないんじゃない? あなたの仕事は、もっと複雑で難しいものだと思ってたんだけど」
美都子が息継ぎをするように笑い、おれも同じように笑った。
「仕方ない。バカの相手で給料が出てるんだから」
夫婦だけなら、どんな険悪な物言いだって物怖じせずに言える。遼一が生まれたのは二十六年前で、咲子は二十三年前。二人が生まれたころは、まだこの地域には住んでいなかった。ここに家を買ったのは、遼一が小学校に上がる前の年。つまり、ちょうど二十年前だ。ベッドタウンとして整備されるよりも少し前の話で、営業マンは必ず住みよい街になると言った。結果的に、その言葉は正しかったことになるが、最初は色々と大変だった。
「室田さんと会わなかった?」
「追いついて、挨拶して、追い越してった」
「やっぱり。革靴の音が聞こえたちょっと後に、帰ってきたから。元気そうだった?」
おれはうなずくと、オイルサーディンを一口食べた。美都子が空いたお盆から再び手に持ったワイングラスが気になって目で追ってみたが、美都子はひょいと手を引き、それ以上飲んではいけないということを態度で示した。そこからは、昔話になった。
おれたちが越してきてすぐのころは、まだ治安が悪かった。例えば深夜に、近所のアパートに停めてあった車のガラスが粉々に割られたことがあった。それだけでは終わらず、町内会で犯人捜しになり、吊るし上げられた犯人が無罪だったから、町内会長は立場を失った。街の人間全員が、やんわりとお互いのことを目の敵にしている。そういう町だったのだ。
再開発が始まって、公園が整備されて新しくなり、立派なベッドタウンと化してからは、そう言った事件はなくなった。
ただ、去年の夏ごろ、住宅街の端に住む外国人の一家が壁に落書きをされて、日本語の意味が分かると同時に引っ越してしまった。美都子はそこの母娘とスーパーでよく話していて、なんとなくその落書きの犯人を、そこの娘と同じ中学校に通う小向と結び付けている。
『そんなわけないと思うけどね』
美都子は決まってそう言うが、小向が空き地によく出没する話を聞いてしまってからは、よりその疑念が深まっているように感じる。
―――
朝は、本社に寄ってから出社。何度言い聞かせても、忘れてしまいそうだ。でも、朝に顔を合わせる相手は変わらない。ひとり目は室田で、競歩で追いついて挨拶をすると、また競歩で駅に向かっていった。おれは、昨日小向とすれ違ったのが気になって、空き地の方をちらりと見た。何かを焼いた跡のようなものが、残っているのが見えた。その後、軽ワゴンで配達の仕事をしている岸さんに挨拶をして、駅の駐輪場で火曜と木曜だけ朝から入っている宮田さんと世間話をした。
小田取締役はご機嫌で、過去十年に起きた取引先とのトラブルをまとめろと言い、言霊をおれに押し込むように肩へ手を置いた。聞いたのがおれでよかったと、素直に思った。井出部長ならその場で色々と質問を返して、小田取締役を不機嫌にさせていただろう。
自分のデスクに辿り着いて、ほぼ出来上がった資料のチェックをしていると、十時ごろに安川課長からメールが入った。『土曜日のゴルフ店の件なんですが、家族行事が入ってしまいまして、行けなくなってしまいました』
安請け合いと、軽いノリ。それが後からひっくり返ることには、慣れている。小田取締役からの課題の中には、安川が営業二課に居られなくなった理由を作った、取引先との軽い口約束も入っていた。相手が係長だと分かっていて重要な決定事項を振ってきた相手にも、もちろん非はある。しかし、それに対して『できます』と返事をしてしまったのは、おそらく四杯目のビールを飲んでいたであろう、安川係長だ。『また今度な』とメールを返して、おれは仕事に戻った。
郡山さんは、おれの表情から相当重い課題を振られたということが分かっているらしく、昼休みは早々に昼寝に入った。それに井出部長は外出だから、今日はスマートフォンの画面を盗み見られたり、世間話に巻き込まれる心配はない。