Clop
安川はビールを飲み干すと、テーブルからジョッキを微かに浮かせたまま、前を歩く店員に向かって頭を下げた。おかわりの注文は、コンマ五秒で完了。今日の安川はいつもよりペースが早く、四杯目に突入しようとしている。酔うと生来のお人よしが顔を出して発言も軽くなるのは、昔から変わっていない。
おれは来たばかりのビールをひと口飲むと、言った。
「一兵卒で、定年までバリバリ外を回るそうだ」
「実務を離れたくない気持ちは、分かりますよ。自分だって、課長に上がるとき不安でしたもん」
心配や不安を口にするのは、それが過去形であっても、少し酔いが回っているサインだ。あと、課長に上がったときの『不安』については、何度も聞かされた。これについては、酔えばみんな同じことを何度も話しがちになるから、おれも人のことは言えない。
去年課長になった安川は、五年前に営業二課から総務課へ異動した。当時は、三十九歳で係長。営業二課の課長は井出で、おれは課長代理だった。おれと井出部長の関係性は、それこそ十年以上変わっていない。
「まあ、上がったんだから。楽しめ」
おれがそう言ったとき、安川のビールが運ばれてきた。経験上、安川は五杯目で語尾がおかしくなる。四杯目で突入するのは、噂話。総務課にいれば、ありとあらゆる『他人事』が耳に入る。おれは相槌を打ち続けていたが、安川が少しだけ間を空けたことで、次に来るのはおれの話だということを予測した。
「ショウさん、株やってるんですか?」
安川が言い、おれは準備していたように笑った。
「誰から聞いたか、当てようか。井出部長だろ?」
「そりゃ、バレますよね。夕方、本社にいらっしゃったので。あ、役員連絡会の話をしてたんですけど、若干認識に違いがあったようで……」
「そうなのか。来週だと思ってたんだけど」
おれが言うと、安川は自分事のように首をすくめた。
「井出部長のスケジューラを見たら、間違えて一週先に登録していたようなんです」
それで、妙に暇だったのか。実際には、今日飲んでる場合じゃなかったというわけだ。おれは首を横に振りながら笑った。
「別に、安川が間違えたわけじゃないだろ」
「いえ、今日飲みに誘ったのは、自分なので」
「二つ返事でついてきたのは、おれだけどな」
ぽんぽんと続く会話が終わり、安川が気まずそうに頭を掻いたとき、おれのスマートフォンが鳴った。トイレに行くついでに席を立って、静かな通路で通話ボタンを押すと、井出部長の声がノイズ交じりに聞こえた。
「急にすまん。役員連絡会、前倒しになるそうだ」
「そうですか、承知しました」
おれはスケジューラに予定を入れ直して、頭の中で数字をはじき出した。安川と飲んでいることは、知らないのだろう。前倒しになったわけじゃなくて、井出部長が登録の日を間違えていただけだが、まあいいだろう。
「明日、本社に寄ってから来れるか?」
飲みに行った次の日の朝イチに本社へ寄るのは気が進まないが、なんとなく、井出部長が苦手な小田取締役から声がかかりそうな気が、今からしている。何か重大な宿題か、前に出した資料の訂正があって、井出部長は顔を合わせないように抜け出してきたが、直接話すと小言が飛んでくるから、小田取締役のお気に入りであるおれを明日送り込むことで、穏便に『課題』を受け取らせようとしているのだろう。なかなか姑息だが、怒られる回数がそれで減るのなら、悪くないやり方だ。
「承知しました」
電話に籠る熱気から、これで終わりではないということが分かった。
「俺は、明日の技術展に来いって、橋田さんに言われちまった。だから、明日と明後日は不在だ。申し訳ないんだが、途中まで資料を頼む」
「承知しました」
おれが機械のように言うと、井出部長は自信を取り戻したように息をついて、世間話でクールダウンした後に電話を切った。トイレに寄って席に戻ったとき、安川が言った。
「井出部長ですか?」
「家に帰ってから、仕事確定だな。三杯で打ち止めにする」
おれがそう言って席に腰を下ろすと、安川はまだ言いたいことがありそうだった。おれが黙ったまま目を合わせると、白状するように息をついた。
「いや、株の話をですね……」
「井出部長は12って、言ってただろ?」
おれが言うと、安川は何度もうなずいた。
「そうですよ。そんないい銘柄、教えてくれたっていいじゃないですか」
おれは笑った。安川は、根が素直だ。そのままの本音をぶつけてくるところが面白いし、みんなに可愛がられる理由でもある。
「あれは、もう古い情報だよ。今は多分、9かそこらだ」
「そうなんですか。それでも高いですけどね」
安川は気落ちしたように顔を引くと、ビールを飲んだ。おれに仕事が入ったことで、はしゃぐ気持ちは相当削がれているに違いない。そこから三十分ほど話して、店を出たおれたちは駅で別れた。
最寄り駅から家までの道のりは、徒歩十分。それなりに便利なベッドタウンで、再開発が終わった今は随分と平和な町になった。おれは公園の近くを通ったときに、リュックサックを片方の肩に担いで歩く山岸に会釈した。家の近所で長年たこ焼き屋を経営している初老の男で、遼一と咲子が子供だったころから、ここの和風だし風味のたこ焼きには随分とお世話になった。
「その感じはひょっとして、一杯やってきましたかね?」
山岸が言い、おれはうなずいた。
「昔の部下と、ちょろっと。駅前にできた酒場天川ってとこなんですけね。開店セールやってますよ」
山岸はリュックサックを担ぎなおすと、ひゅうと口笛を吹いた。
「ちょっと、寄ってみようかな。いい情報をどうも」
手を振って別れ、住宅街に入ったところで、競歩をしているようなペースで歩く室田に追いつかれた。随分前から革靴の規則的な足音は聞こえていたが、相変わらず歩くのが早い。
「こんばんは」
室田は歩くスピードを軍隊のように急に緩めると、おれの隣にぴったりと並んだ。その冷気のようなオーラに思わず顔を引いて、おれは言った。
「こんばんは、相変わらず歩くの早いね」
二十八歳、限界サラリーマン。職種はIT。うちの技術部門と仕事が近いから、どこかのタイミングで空きが出たら、うちの仕事に興味がないか誘ってみたいと思っている。室田は目の下にできたクマを振り払うように顔を横に振ったが、クマはそのままだった。
「負けてられませんから」
「何にだよ」
おれが笑うと、室田はふっと気が抜けたように笑った。一戸建てではなく、そこからもう少し歩いた先にある単身者向けのマンションに住んでいる。
「この時間まで残業なの?」
「今日は、明日から忙しくなるから早く帰れと言われました」
おれは腕時計を見た。午後九時に家に帰るのは、充分忙しすぎるように思える。
「明日から本番か、頑張れよー」
おれが言うと、それがスタートの号令になったように、室田は頭を小さく下げて競歩に戻った。そして、自宅の手前にある空き地の前を通り過ぎるとき、パーカーのフードを目深にかぶった小向が歩いてくるのが見えた。ベッドタウン化する前から建っている市営団地に住む子供で、年齢の計算を間違えていなければ、中学校三年生だから十五歳。
「こんばんは」