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滅亡に追いやる夢

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 結局は、
「いらだちが残ってしまう」
 という夢となるのであり、目が覚めるというというのが、
「まるで、幼児の頭の中だ」
 といっていいような、単純な思考回路しかない状態になるのであった。
 だから、目が覚める時というのは、
「無防備」
 であり、そのために、
「どんな夢でも怖く感じてしまうのだろう」
 というのが、
「子供の頃の夢」
 なのだろう。
 大人になると、その無防備な感覚が、経験と発想の転換ができるようになることで、
「夢というものを、いかに消化できるか?」
 ということが分かってきて、
「インパクトの強い」
 という夢は、
「本当に怖い夢だけ:
 という感覚になるに違いない。
 それが、
「大人になるにつれて、インパクトが強い夢」
 というのが少なくなってきたと考えると分かるというものだ。
 ただ、その分、子供の頃にあまり感じなかった夢を見るようになった。
 いや、それは、
「子供の頃も見ていたのだろうが、そうだとは気づいていなかったことで、インパクトの強さではなかった」
 ということで、
「忘却の彼方に封印されたものだった」
 といってもいいかも知れない。
 それが、
「夢の共有」
 というものだった。
 大人になってから思い出してみると、
「確かに夢を誰かと共有している」
 かのように感じたような気がした。
 それは、
「あくまでも自分の中の感覚」
 というものであり、
「子供の頃によく見ていた、マンガや特撮の世界での発想だ」
 と思い込んでいたのだろう。
 大学生の頃によく、
「SF小説」
 などを読んだが、そこには、
「夢の共有」
 という発想から描かれる作品も結構あったということである。
「夢の共有」
 であったり、
「夢そのもの」
 というものを考える発想、それが、一時期、
「一番怖い夢」
 ということで意識した、
「同じ日を繰り返している」
 という夢であった。
 前述の、
「タイムループ」
 であるが、
「一番怖い夢」
 というのは、子供の頃から、
「その時々で、違っている」
 と感じていた。
 その順番に関しては覚えていないが、その時々で、確かに意識の中にあったのであった。
 まずは前述の、
「同じ日を繰り返している」
 というもので。もう一つが、
「夢の共有」
 というものであった。
「誰かと同じ夢を見ている」
 ということになるので、
「自分の夢だと思っているが、ひょっとすると他人の夢かも知れない」
 と感じることで、
「まったく自由が利いていない」
 と感じるが、
「普段の夢とどこが違うのだろう?」
 とまで感じさせられる。
「確かに、夢の世界なのだから、自分の夢であっても、自分の意識で自由になるものなのか?」
 という意識があることで、
「夢の共有」
 というのも、
「あってしかるべき」
 と考えるのだった。
 まるで、
「合わせ鏡」
 や、
「マトリョシカ人形」
 のように、
「限りなくゼロに近い」
 という、
「無限の発想に近い」
 といえるのではないだろうか?
 そして、もう一つの怖くてインパクトのある夢、それが、
「もう一人の自分の存在」
 というものを見た時だった。
 それを、
「ドッペルゲンガ―」
 というらしいのだが、その言葉を初めて聞いた時、
「知っている人は少ないだろう」
 と思って、人に知っているかを聴いてみると。意外なことにまわりの皆は、
「ああ、知ってるよ」
 というではないか。
 その言葉に嘘はないと思えた。だが、その話を話題にしようという人は誰もいない。
 それを思うと。
「これって、話題にしてしまってはいけないという、何かいわれのようなものがあるのだろうか?」
 と感じた。
 その思いがあることから、そのうちに、
「見てはいけない夢なのではないか?」
 と考えるようになった。
「見るなのタブー」
 と言われるもので、神話や、おとぎ話などでは、
「よく言われているもの」
 ということであった。
 これらの怖い夢というものを、
「頭の中で分離してやらないといけない」
 と感じるようになっているのであった。

                 大団円

「頭の中を分離する」
 というのは、
「夢というものと、現実は、頭の中で分離された後のものだ」
 といってもいいのかも知れない。
「夢というのが、暗示をかけるものだ」
 という考えであり。
「それが、強迫観念に変わってくる」
 と考えると、
「目が覚めるにしたがって忘れていく」
 ということも分かってくる。
 その、
「強迫観念」
 というものを、なるべく感じたくないと思うからであろう。
「強迫観念というのは、怖いもの」
 であり、そのインパクトの強さから、
「忘れてしまいたいこと」
 ということで、
「夢ということで、現実世界に引き戻されたくない」
 ということから、夢というものを、
「記憶の奥に封印してしまう」
 という意識が働くのだろう。
 その意識は、
「元々夢を見る」
 という意識とは違うものなのだろうか?
 夢というものが、
「潜在意識のなせる業だ」
 ということであれば、
「同じものだ」
 といえるかも知れない。
 しかし、そうではなく、
「同じ意識といっても、別のものだ」
 ということであれば、
「意識にはそれぞれに機能というものがあり、その働きによって、決まっているものだ」
 ということであり、逆に、意識が一つだとすれば、
「意識は、その場その場で形を変え、別々の力を見せる」
 といえるだろう。
 しかし、これは、それぞれ、考え方は二つであった。
 そう思うと、
「意識が一つで可変的なもの」
 という考え方と、
「意識は、一つではなく、その時々に存在していて、不変なものである」
 という考え方それぞれ、
「どちらも否定できない」
 といえるのではないだろうか?
 それを考えると、
「夢の世界」
 というものと、
「現実世界」
 というものの二つの世界が、
「意識のどちらかに支配されているものだ」
 といえるのではないだろうか?
 これは、やはり、
「夢というものが、潜在意識のなせる業」
 ということ、
「夢というのは、どんなに長い夢を見ていたとしても、目が覚める寸前の数秒くらいの間に見ているものだ」
 ということ、それ以外にも、
「夢と現実の世界」
 では違いがある。
「怖い夢、インパクトのある夢しか覚えていない」
 ということも、その一つであろう。
「世界的なパンデミック」
 などでも、
「あれだけ、問題になった時は、法律関係なく、皆が団結したではないか?」
 という時代があったのに、政府が、レベルを引き下げると。とたんに、それまでと打って変わって、
「マスクもしないし、何事もなかったかのような生活になる」
 という、
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」
 ということになるのだ。
 まるで。
「目が覚めるにしたがって忘れていく」
 という
「夢のようなものだ」
 といえるではないか。
 本当は、
 そういう忘れてはいけないことを、
「記憶の格納」
 ということで、いつでも引き出せるようにしておかなければいけないものを、
「記憶の封印」
作品名:滅亡に追いやる夢 作家名:森本晃次