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正のスパイラル

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 と誰もが思っているに違いない。
 教授が、
「引退する」
 と言い出した時、ちょうど、
「学部長選挙」
 が行われていたのだった。
 ちょうどその時、立候補していた教授の中で、学部長に就任した人が、そののち、
「本能寺の変」
 について、ある学説を表明したのだ。
 それが、
「長宗我部説」
 というものであり、よく内容を見てみると、
「これは、この間、伊東教授と研究にいった時、四国で調査したその内容に似ているような気がする」
 というものであった。
 その内容は、
「長宗我部が、金で光秀を煽った」
 というものであった。
「じゃあ、長宗我部のその金はどこから出たのか?」
 ということであったが、それが、
「朝廷説」
 だったのだ。
 つまり、
「本能寺の変」
 というのは、
「黒幕は一つではなく、二重になっている」
 という新しい説であった。
 さすが、
「朝廷というのは、行動力であったり、決断力には欠けるが、悪知恵ということにかけては、かなりのものだ」
 ということである。
 あくまでも、自分たちが絶対に疑われないように、
「自分たちの間に、ワンクッション置く」
 ということで、
「しかも、そこには、犯人を限定するような説をかませておく」
 ということである。
 ひょっとすると、
「信長が、四国の支配に関して、それまで、長宗我部に任せる」
 としていたものを、まるで手のひらを返したように、
「約束を反故にした」
 というのは、その裏で、朝廷が画策していたのかも知れない。
 信長は、
「決して朝廷に逆らうようなことはしなかった」
 そのかわり、
「自分でも朝廷を利用しよう」
 とは考えていたはずだ。
 しかし、実際に、朝廷を利用しようと考えてばかりいると、今度は、
「自分が利用されている」
 ということに、存外気づかないものだ。
 信長は、朝廷だけではなく、他の勢力にも同じように、
「こちらが利用されているふりをしていれば、相手を利用しても、そこに、画策があるなど、相手は気づくまい」
 と思っているに違いない。
 それが、
「信長の考え方」
 であった。
 だから、そんな考えをさらに凌駕する考えがあれば、
「まさか、俺が引っかかるなどということはないだろう」
 とタカをくくって、そこに油断があるのかも知れない。
 信長は、その油断が、この時にあったのかも知れない。
 それを伊東教授は、四国遠征の時に、気づいたようだった。
 しかし、それまでに、
「秀吉説」
 というものを本にして出してしまったのだ。
 それを、
「間違いだった」
 ということで、もう一度出すわけにもいかない。
 かといって、せっかくの研究をこのまま埋もれさせておくのは、もったいない。
 相当なジレンマが教授にはあったことだろう。
 そこにもってきての、
「学部長選挙」
 だったのだ。
「恩師が学部長に推薦された」
 ということで、伊東教授は、自分の中で考えただろう。
「恩師のためになることであり、研究を埋もらせないようにもできる」
 ということをである。
 それが、伊東教授の中での、
「ギリギリのジレンマだった」
 ということになるのだろう。

                 大団円

 いじめられっ子だった自分の子供時代を思い出した。
 あの時、自分を自慢してしまったことで、自分がいじめられたということを考えると、
「人のためになるのであれば」
 と、苛めがなくなってから考えるようになった。
 もっと言えば、
「自分がいじめられていた経験があるから、勧善懲悪というものに目覚めた」
 というわけであり、それが、今でいう、
「苛めとの違いではないか?」
 と思うようになった。
 今のような苛めであれば、
「不登校になって、人生変わっていたかも知れないな」
 と思うのだった。
「不登校になって、学校にいかない」
 というと、大きな社会問題で、
「どうすれば、学校にいくようになるのか?」
 ということを考えるだろうが、今の時代になると、
「苛めで学校にいかない」
 というのは仕方のないことで、
「引きこもってしまい、学校にいきたくない」
 という人を、無理に学校にいかせるということは、
「実際には無理だ」
 ということになる。
 そうなると、
「引きこもりの生徒が、通学できる学校」
 であったり、学問に関しては、
「通信制」
 などという形で単位を取得させ、何とか就学させるという方法が望ましいという世の中になってきたのだ。
 それこそ昭和の考えであれば、
「とにかく、学校に来させるのが、第一で、そこから先は、学校に来るようになってから考える」
 などということだったかも知れない。
 そんな甘いことが果たして通用するだろうか?
「学校に来るようになって、また苛めがあり引き籠る」
 これが二度目であれば、もう立ち直ることはできないだろう。
「とりあえずやってみる」
 というのは、
「立証もないのに、人体実験をするのと同じではないか?」
 ということで、それが、昭和の時代には、
「とにかく、根性論だけで押し通す」
 という考えだったのだ。
 それが、まるでバブル経済の時のような。
「実体のないもの」
 と同じなのではないだろうか。
 だから、
「目に見えないものが、破裂しそうになったとして、それを防ぐことができない」
 ということになり、
「我慢させることが、弾けることとなり、それが、崩壊につながる」
 ということになるわけで、そんな時代が、
「歴史上も繰り返されてきた」
 ということになるのかも知れない。
「歴史の謎」
 といわれる
「数ある事件」
 というのも、
「そういう繰り返されてきた歴史の中に成り立っていて」、
 それが、
「かつては、登校拒否」
 といわれていたものが、
「不登校」
 というものに形を変え。
「いじめっ子、いじめられっ子」
 という形で、それぞれの立場を言葉としていう場合の、、
「昭和時代の苛めのようなもの」
 というものから、れっきとした名称で言われるようになった、
「平成以降の苛め」
 というものが、また違った形に見えるということから。
「繰り返される歴史」
 というものも、
「似て非なるもの」
 といってもいいのではないだろうか?
 だから、歴史というものを、
「皆同じ」
 であり、
「繰り返される歴史は、ループしている」
 と考えると、それが、
「タイムスリップ」
 というものに、
「いくつもの考え方が生まれてきた」
 といってもいいだろう。
 だが、
「歴史というものは、ループしているわけではなく。ループしながら、上がったり下がったりしているのではないか?」
 と、山岸教授は考えるようになった。
 それが、
「螺旋階段」
 ということでの、
「負のスパイラル」
 ではないか?
 と考えるようになった。
 だが、スパイラルというものは、
「負のスパイラル」
 というものだけではなく。
「正のスパイラル」
 というものも存在し、それが、鏡のように、
「限りなくゼロに近いもの」
 ということで、
「無限につながっていくものではないだろうか?」
 と考えるのであった。
作品名:正のスパイラル 作家名:森本晃次