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死刑囚の視点(④長谷川真人)

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 その時、僕は、自分の声が随分と低くなったような感じがした。そして、その声は、昨夜姉ちゃんを襲おうとしたダイスケの声に似ていると思った。ようやく立ち止まり、ゆっくりと振り返った姉ちゃんの頬に、細く長い髪が何本かへばりついている。

 僕たちが入った小屋は、鉄道の「無人駅」だった。
 待合室に張られている時刻表の紙は古びすぎて黄ばみ、電車は2,3時間に1本しか来ないようだった。一本しかない線路は、ひび割れたコンクリート製ホームのすぐ横に広がる霧に飲み込まれている。でも、今の僕たちにとっては、電車が1時間に何本来ようが、もう関係が無かった。ダイスケとナツにお金を全部取られてしまったので、僕たちは電車に乗ることもできなかった。
「お母さんたちから連絡は無いの?」
 僕が言うと、壁にもたれるように座ったまま姉ちゃんは首を力なく振る。そして、上着についているポケットの、内側の生地を摘まんで僕に裏返して見せる。車から降ろされた時、僕たちがすぐに警察へ通報しないようダイスケは姉ちゃんからスマホも取り上げてしまったらしい。僕は、もともとスマホもガラケーも持っていない。
「帰りたい?」
 壁にもたれた姉ちゃんは、顔半分を隠すように落ちた髪を払いもせずに言う。もう半分の顔は血の気がなく、疲れ切っていた。
「家に、帰りたい?」
 床にだらしなく投げ出された姉ちゃんの足は、片方が裸足だった。爪のマニキュアは半分以上禿げ、親指と人差し指の間からは血が滲んでいた。僕がこの先も姉ちゃんを連れて行けたら良いんだろうけど……。
 僕は頷いた。僕が姉ちゃんの手を引いて、どこまでも、逃げ続けられたら良いんだろうけど……。お金も携帯も持っていない僕は、無力だった。心は子供のままで、図体だけが18という歳なりに大きくなっていた。
今の僕にあるのは、身体の内側で風船のように膨らみ、僕を内側から食い破ろうとするほどに大きくなっていく醜い欲望だけだった。姉ちゃんも頷き、力なく閉じた瞼からは、細い涙が流れた。僕は、姉ちゃんの投げ出された白い太ももから、気まずく視線を逸らせる。


 家に帰った後、僕が両親から怒られることは無かった。
 その代わりに、僕の部屋の扉には外から鍵がつけられた。食事は、僕が寝ている夜のうちに3食分がまとめて入口のところに置かれ、トイレに行きたいときは扉をノックして、いつも家にいるお母さんに鍵を開けてもらった。僕は扉の向こうの足音に耳を澄ませ、お母さんがそこから居なくなったのを確認して部屋を出るので、僕は同じ家に住んでいるのに、お母さんとも、お父さんとも全く顔を合わせなくなった。姉ちゃんは、もう僕の部屋に寄りつかなくなった。
姉ちゃんは、すっかり幻滅してしまったのかもしれない。せっかく外に連れ出してもらったのに、僕は、逃げ続けることが出来なかった。
怖かった。ダイスケやナツのことだけじゃない。ゲーセンとか、SNSとか、ツイッターとか、セックスとか、初めてきく姉ちゃんの汚い言葉遣いとか。とにかく、初めて目にする世界に、あの日の僕は、すっかり気後れしていた。心のどこかで僕は、このまま逃げ続けられるはずが無い、と思っていた。
 ナツの目。助手席のシートから、顔をぬっと突き出していたナツの異様な目を思い出す。姉ちゃんを恫喝するダイスケの低い声と、懇願する姉ちゃんのか細い声を思い出す。そういう光景を思い出し、欲情している自分が怖かった。ぼんやり布団に寝そべっていて、気が付くと僕は姉ちゃんの胸のふくらみや、スカートからむき出した白い太ももを想像している。
 お父さんの部屋の方から、姉ちゃんの笑い声はもう聞こえてこない。姉ちゃんは僕のことを置いて、再び家を出てしまったのかもしれない。
 僕は、それでいい、と思う。再び姉ちゃんが目の前に現れたら、今の僕は、何をするか分からない。僕は、姉ちゃんを傷つけてしまうかもしれない。
 外から足音が近づいてきて、扉の鍵が開かれる。僕は布団を被ったまま、再び足音が遠ざかるのを待っていたが、
「真人……?」
 外から声がした。姉ちゃんだった。
「……入っていい?」
 僕は返事をしなかった。布団で耳を塞いだが、それでは遠ざかる足音も聞こえなくなってしまう。しばらく時間を置いてから、僕はしんと静まり返った扉を開ける。目の前に、姉ちゃんが立っていた。 
いつぶりだろう。思わず後ずさりした僕の身体を押しのけるようにして、姉ちゃんは、僕の部屋に入ってくる。
「座って」
 姉ちゃんは、足元の布団を指しながら僕に命じる。僕の心臓は、喉の奥でドクドクと激しく脈打っていた。偶然なのかもしれないが、姉ちゃんは、身体の輪郭がはっきりと分かるような薄いシャツを着ていた。丸首の襟はよれ、ブラジャーの細い紐が片方だけ覗いている。
 姉ちゃんと会うのは、多分、家出から帰ってきた日以来だった。僕が布団に腰を下ろすと、姉ちゃんも、僕と膝がくっつきそうな距離で布団に腰を下ろす。
「ちょっ……!」
 姉ちゃんはおもむろに丸首を掴んで引っ張り、自分の胸元を露出させる。僕の顔をじっと、睨みつけながら。
「見て」
 僕は、おそるおそる顔を上げる。鎖骨の周りや、胸がちょうど膨らみ始めた辺りの皮膚に、ゴルフボールと、野球ボールのちょうど中間くらいのアザがいくつもこびりついている。
一緒だ。僕は息をのんだ。そのアザは、僕が幼い頃に、お父さんに殴られて身体中につけられたアザと一緒だった。
「アンタのせいだよ」
 姉ちゃんはそう言って、細いあごをしゃくる。細い眉と眉の間に皺が寄り、姉ちゃんは、僕の目からピクリとも視線を離さなかった。
「あの日、アンタが帰ろうなんて言ったから……」
 姉ちゃんの、憎しみが込められた瞳に見つめられながら、僕の身体は内側から震えていた。姉ちゃんの生ぬるい息が、僕の頬を撫でる。僕は視線を、姉ちゃんの表情から、スカートからむき出した姉ちゃんの白い膝頭に落とす。息を吸い、吐き出し、それでも肺に空気が足りていないような苦しさを感じていた。
「真人。アンタが、イクジナシだったから……。逃げる度胸も、立ち向かう度胸もない。イクジナシの、イ〇ポ野郎だったから!」
 姉ちゃんの唾が、僕の頬にかかる。僕は再び視線を上げる。姉ちゃんの、憎しみで染まった顔が、小刻みに震えている。
いや……違う。震えているのは、僕の方だった。
「そんなんだから、アンタはここから一歩も出られないんでしょ?」
 姉ちゃんが指で押した布団に、皺が寄る。僕はこの苦しさから解放されたくて、さらに大きく息を吸い、吐き出す。今度は姉ちゃんの憎しみで赤らみ、潤んだ瞳をまっすぐに見つめながら。
「アンタが生きているだけで、ヒトがこんなに苦しんでいるのがまだ分からないの?」
 「まだ」と言ったとき姉ちゃんの声が裏返る。さらに僕は、姉ちゃんの手に胸を押され、バランスを崩して後ろの布団に指をつく。
その時、僕の中で、何かが、キレた。
「そんなに怖いなら、もう死んじゃえば?」
 姉ちゃんの、怒りで赤く染まった顔が、布団の上を後ずさりする僕に迫ってくる。
「死んだら、楽になれるよ?」
 姉ちゃんの上気した頬が緩み、