死刑囚の視点(④長谷川真人)
ゲームセンターを出た後、ダイスケが運転するバンは高速道路に入った。しばらく走ったところで姉ちゃんが「ションベンしたいんだけど」と言い出したので、僕たちはサービスエリアに立ち寄った。
用を足した僕とダイスケがトイレから出てくると、姉ちゃんと二人で入った筈のナツが、もう外で僕たちを待っていた。
「ねえ、ま~くんさあ~」
ナツは僕のことをずっと「ま~くん」と呼んでいた。横からダイスケが「たなかまさひろかよ?」と突っ込んだが、僕には意味がわからず、ナツはダイスケの言葉を無視した。
「お姉ちゃんのこと、どう思ってる?」
「どう、って?」
どうしてそんなことを聞くのか?僕の表情に、ナツの赤い口紅をつけた唇の端がニッとつり上がる。
「だって、京香って、お父さんとヤってるんでしょ?」
「やってる?」
何が?僕はナツの言う「やってる」の意味が分からなかった。一瞬、ナツは真顔になったが、すぐにもとの笑みに戻った。「やっぱり、知らないんだ~」まるで獲物を見つけたヘビのように、細めた瞼の下にある瞳がわずかに濡れる。
「京香って、お金もらって君のお父さんとヤってるんだよ?」
「やってるって、だからなに!?」
訳が分からないけど、僕は怖くなって叫んだ。少し離れたところにバイクをとめてたむろしている集団がこちらを振り返る。横からダイスケが「バカ!声でけえよ」と言って、僕のお尻を軽くはたく。
「やるって言ったら、セックスのことに決まってんだろうが」
まだ呆然としている僕を、ダイスケは呆れたように目を瞬いて見つめる。
「お前、自分でシコったこと無いのか?」
ダイスケは股間の前で作った握りこぶしを、前後に動かす仕草をして見せる。頭で理解するよりも先に、手足に弱い電流を流されたような嫌悪感が僕を襲った。
「お金の発生しないセックスなんて、アタシにはできないわ~」
そう言ってナツは、シャツの肩におちた赤髪を、肩の後ろにさっと払って見せる。姉ちゃんの仕草だ。ナツは、姉ちゃんの真似をしていた。ナツはお腹を抱えて震えだす。
「ばっっかじゃねえの!」
ナツは赤い口を開け、大きめの唾が二、三粒とんだ。またバイクの連中がこちらを振り返り、慌てたダイスケが「バカはおめえだよ!」と言ってナツの背中を叩く。
「でもさ!でもさ!アンタってさ~、結局、今までお父さんとしかヤったことないわけでしょ?」
ナツは線のようになった目の端に涙をため、僕のジャンパーの胸を指でつく。
「それってただのファザコンじゃん!」
なんでか分からないが、僕は震えていた。ナツとダイスケが、僕の下腹部が膨らんでいくような感覚の話をしていることは、分かる。でも、理解できないのは、なぜナツは姉ちゃんの悪口を言うのか?ということだった。ナツはさっき立ち寄ったコンビニで、自分のスマホを使って姉ちゃんと写真を撮っていたのに。車に乗ると、二人で撮った写真を「ついったー」に投稿していた。ナツは僕に「エス・エヌ・エスは一つもやらないの?」と聞いた。エスエヌエス?ツイッター?どっちだよ、と僕は思った。
二人は、仲が良かったはずなのに。
姉ちゃんが両手を合わせ「ごめんポーズ」をしながら出てくると、ナツは「もう京香、おそいよ~」と鼻から出したような声になる。
「ごめん、マジごめん!」
「おい、走れ!お前ら」
ダイスケが青ざめた表情で腕を振り、後ろからバイクの集団がゆっくりとこちらに近づいてくる。「ヤバイ犯される!」「え、ムリ~」ナツは姉ちゃんとつつきあいじゃれ合っている。理解できなかった。「おい、真人も走れよ!」ダイスケにジャンパーの襟を強く引っ張られ、僕は訳が分からないまま、よろめきながら走りだす。訳が分からなかった。
え、ちょちょ、やめ……。
姉ちゃんの声がする。
やめ、てよっ……!
扉の向こうから聞こえてくるのかと思ったが、違った。
やめてっ!
パチンという乾いた音が響く。ここは、僕の部屋じゃなかった。バンが揺れていることに気が付いて、僕は目を覚ます。
「真人がいるから……」
姉ちゃんの声を、今度ははっきりと耳にする。
「お前、誰の車に乗せてもらったと思ってんだ?」
ダイスケの声。3列並んでいる椅子の、僕は2列目に寝そべっていて、二人の声はすぐ後ろから聞こえていた。
二人の服と、シートの生地が激しくこすれ合う音が響く。
「なめんなよ!クソガキ」
ダイスケが、今までとは違う低い声で怒鳴る。シートに寝そべった僕の全身は強張り、声を出さないよう必死に口元を押さえた。「もう降りろ」ダイスケが、低い声でそう命じる。姉ちゃんの、荒くなった息が途切れる。「明日の朝まで……」姉ちゃんが、唾をごっくりと飲み込む音が聞こえる。
「せめて明日の朝まで、居させて。お願い」
「宿泊料」
ダイスケの冷たい声が、そう告げる。
「金は全部おいていけ。車代と宿泊料だ」
「でも」
「体を許せないなら、それくらい当然だろう?」
ダイスケに詰められた姉ちゃんが「分かった……わかったから……」と、消え入りそうな声で訴える。
僕は必死に口を押えていたが、もう限界に近かった。僕はたまらず目を開く。熱い涙が流れた。初めてだった。怒鳴られても殴られてもいないのに、涙が溢れてくるのは。助手席に傾いて寝呆けているナツの頭が、僕から半分くらい見えている。黒く塗りつぶされたフロントガラスの方を向いて、寝呆けている……いや……違う。ナツはこちらを向いていた。後ろからは、姉ちゃんがすすり泣く声が聞こえてくる。ナツは、助手席のシートから顔を半分ぬっと突き出すようにして、僕を、じっと、見つめていた。
霧の中にダイスケが運転する車のテールランプが消えると、僕たちは歩き出す。僕と姉ちゃんが降ろされた場所は、片側一車線のアスファルト道で、傾斜がかなりキツイので山道かもしれない。急斜面を下るように歩いていくと、濃い霧で満たされたガードレールの向こうから微かに、川のせせらぎのような音が聞こえてくる。時々、後ろから走ってくる車やトラックは、濃い霧のせいで寸前まで僕たちの姿が見えないのだろう、急ブレーキをかけたり、反対車線に大きく膨らんだり、或いは、クラクションを鳴らされ、前にくると窓から顔を突き出して怒鳴ってくるドライバーもいた。僕たちはいつ轢かれてもおかしくない状況だったが、前を歩く姉ちゃんはずっとぼんやりしていた。
随分長い時間をかけて山の麓まで降りてくると、道端に僕の地元では見たことがない茶色のセブンイレブンが現れた。さらに進んでいくと、漫画でしか見たことがない武家屋敷のような古い家とか、信号機より数段高い大きな鳥居とかが次々に現れた。僕はどこまで来てしまったのかと不安になったが、姉ちゃんは相変わらずぼんやりした様子で、時々、冷たい風でスカートがめくれ上がるのも構わず歩き続けた。
随分歩き続けてから、僕は道端に小さい小屋のような建物を見つけて、後ろから姉ちゃんの袖を引っ張る。
「休もうよ」
作品名:死刑囚の視点(④長谷川真人) 作家名:moshiro