死刑囚の視点(④長谷川真人)
二人で部屋にいる時、僕は姉ちゃんにそう聞いてみた。姉ちゃんの、明るい茶髪をいじっていた指が止まる。
「なんか良いことでもあったの?」
僕が言うと、姉ちゃんは僕とは目を合わせず「ふっ」と唇で空気を弾くような笑い方をする。そして、いじっていた髪を、肩の後ろのほうへ払うようにさっと流した。姉ちゃんは時々、僕に何か重要なことを打ち明けようとするとき、そうして弄っていた髪を、肩の後ろへさっと流してから僕を見つめた。
「アンタも高校くらいは出といたほうがいいよ」
姉ちゃんはそう言った。僕の問いには、こたえなかった。
「これ、先輩からのマジなアドバイス」
そう言って姉ちゃんは僕に笑って見せようとしたが、目の下のうすい皮膚がぴくぴくと引きつっただけだった。それは笑顔というよりかは、泣く寸前の表情みたいだった。
そういえば最近、姉ちゃんは以前のように「死にたい」とこぼさなくなっていた。
扉の向こうからは、相変わらず姉ちゃんの笑い声が聞こえてくる。姉ちゃんは、僕の前ではあまり笑ってくれないけれど、今はきっと、幸せなんだろうな~と思う。日曜日の礼拝には、お母さんが一人で行くようになったようだ。もう姉ちゃんが友達の家を連れ回されることは無くなったのだろう。
ある日の夜。僕が寝ている部屋に、突然、姉ちゃんが忍び込んできた。
「行くよ」
「え……?」
耳たぶに生暖かい息を感じて、僕は思わず声を上げそうになった。姉ちゃんの汗ばんだ指が、僕の口をとっさに塞ぐ。「服、さっさと着替えて」部屋の明かりをつけると、姉ちゃんは唇で空気を弾くような声で僕にそう命じた。まだ訳が分からない僕の胸に、姉ちゃんは、お父さんがたまに着ているジャージの上下と、もこもことした生地のジャンパーを放り投げる。
お父さんが寝ている部屋の前の廊下を、僕たちは足音を立てないよう慎重に通り過ぎる。階段を降り、1階についてからも油断はできない。1階のリビングには、お母さんが一人で寝ているからだ。
ドアラッチを押さえながら家の扉を静かに閉めた後、姉ちゃんは、顎の下で小さくガッツポーズをした。
「やった!」
僕の手首を掴むと、白い街灯がぽつぽつと照らす夜道を小走りで歩きながら姉ちゃんは何度も「やった!やった!」と繰り返し呟いた。僕の家から多分50メートルくらい離れた道の角を曲がった時、停まっていたバンのライトがパッと点く。
姉ちゃんの友達二人が、僕たちを迎えに来ていた。
「バレなかった?」
僕と姉ちゃんが後部座席に乗り込むと、姉ちゃんと同い年くらいに見える女の子が助手席からこちらを振り返る。姉ちゃんは両てのひらを大げさに、胸の前でパチンパチンと叩きながら笑う。
「こんな口開けて寝てたからね、あのババア!」
ババアとは、お母さんのことだろうか?運転席に座った男の子は大きなハンドルを右に切りながら笑い、髪を赤く染めた女の子は、戸惑う僕の表情をじっとのぞき込む。
「真人くん、だっけ?」
「え?」
「なにそのジャンパー、おっさんクサイ!」
女の子が言うと、姉ちゃんは僕が着ているジャンパーの胸元をつまんで雑に揺さぶる。
「ジジイの部屋から盗んできたやつだからね、これ。仕方ないっしょ」
僕は姉ちゃんの方を、おそるおそる振り返る。ジジイとはきっと、お父さんのことなのだろう。姉ちゃんがこんな喋り方をするのを、僕は初めて聞いた。
「ジジイって、あの変態ジジイのこと?」赤髪の女の子が、助手席からさらに身を乗り出す。
「キッショイいびきかいて寝てたわ、あいつも」
「ねえジジイって、中出しジジイ……」
「ねえアタシ腹減ったんだけど、なんか食いもんとかないの?」
姉ちゃんが運転席のヘッドレストをバンバン叩き、運転していた男の子は「わあった!わあったよ!」と声を上げ、左ウィンカーを出してバンをコンビニの駐車場にとめる。
「好きなの選びなよ」
そう言って姉ちゃんは、レジ横に置いてある肉まんや揚げ物が並んだボックスに向かって細いあごをしゃくる。姉ちゃんは寒いのか、上着のポケットに両手を突っ込んでわしゃわしゃとさせていたが、下はいつもの太ももがほとんどむき出しになる短さのスカートをはいていた。
「アンタ、肉まん好きでしょ?」
「いいの?」
「お金は私が払うから、大丈夫」
「そうじゃなくて……」
姉ちゃんは僕の表情を振り返ると、苦笑する。
「アンタ、もう18歳でしょ?」
「うん」
「じゃあ、家出の1回や2回くらい経験して当然でしょ?」
「家出?」
「そう」
姉ちゃんは、まつ毛が強調された瞳で僕を見上げる。そして、細長い指で、僕のニキビが浮いた頬にピタピタと触る。
「シャキッとしな。もう子供じゃないんだから」
そう言って姉ちゃんは笑った。いつからだろう。僕は考えてみた。僕はいつから、姉ちゃんを見下ろすようになったんだろう。僕が何かこたえる前に、姉ちゃんは、雑誌コーナーにいる友達の方を振り返って「あ~、バイト先の廃棄持ってくれば良かったわ~」と叫び、レジに立っている縦じまのユニフォームを着たオジサンが、姉ちゃんをじろっと睨む。
コンビニを出た後、僕たち4人はゲームセンターに入った。
2人対戦のレーシングゲームをやり、姉ちゃんと「ナツ」と呼ばれた赤髪の女の子がまず対戦し、その後に僕と「ダイスケ」という運転手の男の子が対戦した。
それぞれ使う車の設定を選ぶとき、ダイスケは「まにゅある・とらんすみっしょん」を選び、僕は車を運転したことがないし、レーシングゲームも初めてだったから「おーとまちっく・とらんすみっしょん」を選んだ。僕が選んだモードは、ダイスケのように左手でレバーをしょっちゅうガチャガチャやらなくて良いので、操作はずっと簡単な筈なのに、カーブでは毎回壁に激突して、そのたびにナツはお腹を抱えて笑った。
「しゃーないな、も~」
見かねた姉ちゃんが、横からハンドルを握る僕の手に自分の手を添える。シャンプーなのか香水なのか、甘酸っぱいにおいが姉ちゃんの首元から漂ってきて、僕はドキドキした。さっき姉ちゃんがプレイしている時、左足のクラッチを何度も踏んだり離したりして、その度に短いスカートの端がひらひらと浮き上がるので、僕は、中が見えてしまうのではないかとやはりドキドキしていた。
「真人はゲームもやったことねえのか?」
片手ハンドルで振り返るダイスケの車に、僕が運転する車はもう2周分も遅れていた。横からナツが「もお、ま~くん、カワイイ~!」と笑いながら、余らせた袖で目元の涙を拭っている。
「真人!アクセル!」
姉ちゃんに言われた通りに、画面がカーブから直線に切り替わると僕は右足でアクセルを強く踏む。ダイスケはもうハンドルから両手を放し「ひ~ひっひ」と喉が引きつれたような笑い声をあげている。
「ブレーキ!真人!アクセル、はなせっ……ダイスケ!油断してると抜いちゃうぞ!」
姉ちゃんが言うと、ダイスケは前を向き直り「やっべ!」と声を上げる。姉ちゃんの指示で僕が運転する車は、画面の中でダイスケが運転する車のテールランプに猛スピードで迫ろうとしていた。
作品名:死刑囚の視点(④長谷川真人) 作家名:moshiro