死刑囚の視点(④長谷川真人)
それから僕は、何かしでかすたびに物置へ放り込まれるようになった。真冬にシャツやパジャマ一枚で外にある物置に放り込まれると、空気の冷たさが肌を切り刻むようで「寒い」というよりもはや痛かった。だから、片付ける時にお母さんがわざと残したのかは分からないけれど、物置の奥でくしゃくしゃになっていたお父さんのゴルフウェアを羽織って寒さをしのいだ。泣いたり声を上げると、家の中からお母さんかお父さんが飛んできて僕を引きずり出してまた殴るので、僕はきつい汗と埃のにおいがする襟を噛んで声を押し殺した。
正直、殴られるよりは寒い方がマシだった。殴られると傷が残るし、学校で先生や友達に発見されてしまう。寒さは、傷が残らないから。先生や友達に僕は「可哀そう」と思われるのが嫌で、僕の足はだんだん学校から遠のいていき、そのことについて、お父さんもお母さんも何も言わなかった。
扉の向こうから足音が近づいてくる。物置に閉じ込められるようになってから一週間も経つと、僕は庭の小石を踏む音やリズムで、近づいてくる人が誰なのか、大体分かるようになっていた。
扉がそっと開かれる。姉の京香が、持ってきた夕飯の皿をうっすら埃が浮いた床に置く。僕は鼻の下についた鼻水を、汗臭いゴルフウェアの袖で拭く。僕が食べる夕飯の皿とコップを並べながら、姉ちゃんは黙っている。姉ちゃんが、お父さんやお母さんに殴られることは無かった。姉ちゃんは、お母さんがお腹を痛めて生んだ「本当の子」だったからかもしれない。
持ってきた盆を抱いた姉ちゃんは、戸を閉める時も僕と目を合わせなかった。でも僕は、僕より姉ちゃんの方が可哀そうな気がした。姉ちゃんは、今も布教のためにお母さんと友達の家を歩き回っているようだった。僕は「悪魔の子」になったから、最近はもう教会に連れていかれることも無くなっていた。
再び戸が、今度はさっと開かれる。
「真人」
僕とは違う二重瞼の、綺麗な瞳と視線がぶつかる。
「逃げな」
姉ちゃんに腕を掴まれ、僕は思わず顔をしかめる。僕が何かこたえる前に、姉ちゃんは戸を閉めてしまった。
僕は、逃げなかった。
「このっ、悪魔……消えろ!」
相変わらずお母さんに怒鳴られ、シャツをめくられむき出しになった背中を叩かれている間、僕の意識は、肌を裂かれるような痛みに耐えている僕の表情と、傍で机に向かっている姉ちゃんの表情をじっと見つめていた。どうしてそうなってしまうのか、自分でもよく分からないのだけれど、僕とは別の「僕」が怒鳴られ、殴られることで、こっち側にいる僕は、襲ってくる痛みや苦しみに耐えられる……多分、そんな感じ。
僕が怒鳴られたり殴られたりしている時、姉ちゃんがよく傍にいた。そういう時の姉ちゃんは、いつも無表情だった。曇りガラスの向こうからこちらを見つめているような、何かに耐えているようで、でも、何も感じていないような、そんな表情。
「もうやめとけ」
仕事から帰ってきたお父さんが、お母さんを止める。でも、お父さんがお母さんを止めたのは、僕を助けるためじゃない。僕の叫び声が近所の人に聞かれたらマズイからだ。その時、姉ちゃんは宿題を終えたのか、机から手を放して伸びをする。
「悪さをしたら、物置に入れておけって先生に言われたんだろう?」
お父さんは、日曜日には教会に行かないし、神様も信じていなかったが、そう言った。肩で息をしながらお母さんは頷く。お父さんにシャツの襟首を掴まれ、持ち上げられた時に「びりっ」という音がして、お父さんは僕の前髪を掴んで庭まで引きずって行った。
「いい加減に気づきなよ」
姉ちゃんは、僕が食べ残した皿を片付けながら呟く。物置に放り込まれる時に、僕はお父さんに顔をグーで三、四発立て続けに殴られたので、裂けた口の中がチクチクとして痛く、食事はほとんど喉を通らなかった。
「ウチの両親はおかしい」
「……へえ~」
とぼけた声を出すと、血が熱い筋となり唇の端から流れ出す。認めたくなかった。僕だけが酷い目に遭っているなんて。
「逃げな」
「姉ちゃんも一緒に来てよ」
僕は笑うと、口の中に血の苦い味が広がった。姉ちゃんは、僕のように殴られることは無かったけれど、僕によく「死にたい」とこぼしていた。僕は、姉ちゃんを置いて逃げるわけにはいかないと思った。
「あんな親でも」
姉ちゃんは不貞腐れたように唇を尖らせながら、僕がほとんど食べられなかったカレーの皿や水が入ったコップを、最近は少しずつふくらみはじめた胸にかかえていく。
「一応、自分の親だから」
「僕の親でもあるよ」
「違う!」
顔を上げた姉ちゃんの瞳と目が合う。白い頬に一つ、薄桃色のニキビが出来ていた。
「違うよ、あんな奴ら……アンタの親なんかじゃない」
姉ちゃんはうつむくと、頬についたゴミか何かを指で拭ってから、小さく鼻をすする。
「私のことは良いから……あんたは隙を見て逃げな。分かった?」
姉ちゃんはそう言い聞かせ、同意しなければ帰ろうとしないから僕は頷いた。
戸が閉まる。僕は、暗闇の中に姉ちゃんが残した温もりを手繰り寄せるように、すり切れた膝を抱え、目を閉じた。
僕が大きくなるにつれて、両親が僕を怒鳴ったり殴ることは少なくなっていった。13歳の誕生日に、僕は自分の部屋を与えられ、それからは1日のほとんどをその部屋で過ごすようになった。
僕の背は伸び、両親を見下ろすような格好になると、二人は僕を何か気味の悪いものでも見るような目つきで眺めるようになった。僕はしょっちゅうお腹が空くようになり、台所にいるお母さんの後ろに立つと、お母さんは身体をビクンと震わせて「びっくりさせないでよ、もぉ……」と言いながら、かつて僕を殴った手で、僕が食べる肉まんやピザをレンジで温めてくれた。
僕の部屋を訪れるのは、姉ちゃんだけだった。
近所のコンビニでアルバイトをしている姉ちゃんは、賞味期限が切れ廃棄になったおにぎりや弁当をお土産によく持ってきてくれた。
「学校は行かないの?」
親子丼を犬のようにかき込んでいる僕の横で、姉ちゃんが呆れたように呟く。僕は、丸いプラスチック容器の端から見える、姉ちゃんが履いた短いスカートの先にのびる白い太ももをちらと見つめてから頷く。「ま、私もヒトのこと言えないけどね」姉ちゃんが、明るい茶色に染めた髪を指ですくと、甘酸っぱい香りがすっと鼻の奥を突き抜けていった。
そういう時、僕はなぜか、お腹の下の辺りから小さな風船がいくつも膨らんでいくような、むくむくとして、妙に気持ち悪い感覚を覚えるようになっていた。
最近、一人で部屋にいる時、扉の向こうから微かに、姉ちゃんの笑い声が聞こえてくることがあった。
「ちょちょ、も~……」
僕は、姉ちゃんの笑っている姿を見たことがほとんど無かった。その声は、僕がいる部屋の向かいにある、お父さんの部屋から聞こえてくるようだった。
「ははっ、はっはっはっはっ……!」
姉ちゃんは何かが面白い、というより、くすぐったがっているみたいだった。
「はははっ!ふふふふ……」
僕は自分の部屋の扉に、耳をぴったりと押し当てる。しかし、この扉の向こうへは、なぜか、僕は行ってはいけない気がした。
「機嫌いいみたいだね」
作品名:死刑囚の視点(④長谷川真人) 作家名:moshiro