死刑囚の視点(④長谷川真人)
4.長谷川真人
その日から僕は、悪魔の子になった。
お母さんに「先生!」と呼ばれた男の人から目をつむるよう促され、僕は固く瞼を閉じる。そうして視界が閉ざされても、僕の正体を読み取ろうとする先生の汗ばんだてのひらが、僕の頭や、耳や、頬のすぐ近くを動き続けているのが、もやもやとした熱や、微かな風切り音で感じられる。
先生が「はっ……」と息を吸ったのが分かる。思わず目を開けた。僕の視界にまず飛び込んできたのは、先生が首から下げた金色のロザリオ。先生が後ずさりした反動でたゆたうロザリオの残像に、僕は一瞬、頭がクラクラとして、意識が遠のいていくような感じもした。
「もしかして、この子は……」
先生は、かたずをのんで見守るお母さんの方を振り返る。
「あなたの本当の子ではない……そうですね?」
お母さんは顎の下で指を絡み合わせたまま頷く。隣では、僕の前に先生の「透視」を受けた姉の京香が、中学校指定のスカートの端をつまらなそうに弄っている。
先生の預言は当たっている。僕は、お母さんの「本当の子」ではなかった。
今、先生の言葉に従順な弟子のように頷いているお母さんは、僕が1歳になったばかりの頃から僕を育てている。でも、僕を生んだお母さんは、別にいた。夜になるとこの家に帰って来るお父さんの妹が、僕を生んだお母さんだった。
僕を生んだお母さんは、僕がまだよちよち歩きをしていた頃に事故で亡くなった。流れの激しい川に落っこちて亡くなったというお母さんの遺体からは、大量のお酒と、薬が検出されたという。
僕はあまりに幼かったから、その時の記憶はほとんどない。ただ、お母さんがいなくなった後の、橋の地面や、生い茂った木々の隙間から吹き抜けてくる風がとても冷たかったことだけは覚えている。
僕はお父さんとお母さんの「本当の子」ではない。でも、先生の預言は、それだけでは終わらなかった。
「この子は呪われている」
先生の分厚い一重瞼が見開かれ、僕は怖かった。毎週日曜日に、お母さんと姉の京香と三人で通っている教会では、先生がこんな表情を見せることは無かった。教会に通う子供たちから慕われていた先生が、こんな風におかしくなったのは、いつからだろう?僕を育ててくれたお父さんと、お母さんが僕を怒鳴ったり、殴ったりするようになったのは、いつからだろう?
先生にシャツの上から両腕を鷲掴みにされて、僕は思わず顔をしかめる。袖に包まれた腕には、昨日できたばかりのアザがあった。お父さんが僕を殴る時、シャツやズボンの生地に隠れる部分を狙っていることを、僕は最近になって気付いた。
「ご主人の会社経営が上手くいかないのも、娘さんの学校生活が上手くいかないのも、すべてこの子の影響があるかもしれません」
先生の額に大粒の汗がいくつも浮かび、脂ぎった鼻の頭や、カサカサに乾いた唇の端をすべり落ちていく。「そう……かもしれません!」手のひらを組んだまま頷くお母さんの横で、姉の京香が、唇をむにゃむにゃと動かしてあくびを噛み殺す。お姉ちゃんの学校生活が上手くいかないのは、お母さんが教会の勧誘にお姉ちゃんを連れまわすからだ。お父さんとお母さんがいない時に、お姉ちゃんは「友達の家に連れていかれて嫌だ」「死にたくなる」と僕にこぼしていた。
「確か、裏庭に物置がありましたね?」
そう言って先生は、僕の腕を掴んで床から無理やり立たせる。思わず「いって!」と僕が叫ぶと、ほぼ同時にお母さんの平手打ちが飛んでくる。「静かにしなさい!」お母さんの唇から唾が飛び、僕は目を瞬くと熱い涙がこぼれた。別に辛いとか、悲しいというわけじゃないのだけれど、例えば全力で走ったら汗をかくように、僕は物心がついた頃から、お父さんやお母さんにぶたれると、僕の目からは自然と涙が溢れるようになっていた。
「この子が何か悪さをしたら、そこに閉じ込めておくように……」
先生が言い終わらないうちに、お母さんは物凄い力で僕を部屋から引っ張り出す。先生が「僕を閉じ込めておくように」と命じた物置には、お父さんが持っているゴルフクラブとか、パット練習用のマットとかがしまわれている。最近は、お父さんが休日にゴルフバックをしょって出かけることはほとんど無くなっていたが、僕を殴るためのゴルフクラブは、1階のリビングの壁と、2階の寝室の壁につねに一本ずつ立てかけられていた。
「京香も手伝いなさい!」
庭に出ると、物置で埃をかぶっていたゴルフクラブやバックを乱暴に放り投げるお母さんを、後ろで突っ立っていたお姉ちゃんも慌てて手伝う。僕はというと、逃げないよう先生に肩を掴まれたまま泣いていた。よく分からないけれど、僕の手足は震えて言うことを聞かなかった。
「なにも怖いことは無い」
頭の上から、先生の声がした。泣きながら僕は、別に怖いわけじゃない、と思った。お母さんに怒鳴られ、お父さんに殴られている時、僕の意識は、いつも自分の身体から少しずれた場所にあった。僕の意識は、まるで守護霊のように、怒鳴られ殴られている自分を俯瞰しているような感覚だった。
実際に殴られているときよりも、僕は通っている小学校で、先生や友達に服の下に隠れた傷が見つかって「真人くん、大丈夫?」と声を掛けられた時の方が、ずっとずっと辛い気持ちになった。そういう風に心配されると、僕は「君は普通じゃない」「可哀そうな子」という現実を突きつけられている気がして悲しかった。
「悪魔!」
空っぽになった物置に放り込まれると、乱暴に閉められた扉の向こうからお母さんが叫ぶ。
「私の子じゃない!
悪魔の子よ!アンタは……」
「真人くん!」
先生の声が重なる。
「これは君のためでもあるんだ!」
どうでも良かった。神様とか、悪を封じるとか、奇跡とか……。三人の、庭に敷き詰められた小石を踏む足音が遠ざかっていく。
そんなことよりも僕は寒かった。吐こうとする息が、喉の奥で震える。全身の震えを抑えようとして、てのひらで腕や足をさすり、固く目を閉じると熱い涙が滲んで、底冷えする僕の身体は、少しだけ温められた。
僕を生んだお母さんが欄干を超え、その下に流れる濁流の中に消える。橋の上に残された幼い僕が、引きちぎれんばかりの勢いで泣いている。はっきり覚えていないはずの光景が、閉じた瞼の裏側にぱっと広がる。鳥肌が立つ腕をおさえる指も冷え、ガクガクと震えだす。あの時の僕は、きっと、こんな感じだったんだろうな。ハイキングか何かでたまたまその橋を通りかかった人が通報して、僕は助かった。その場所は、普段はめったに人が通らないさびれた場所だったから、駆け付けたレスキュー隊員やお医者さんから僕は「奇跡の子」と呼ばれたらしい。
「奇跡の子」だった僕は、今日「悪魔の子」になった。目を閉じても開いてもほとんど変わらない暗闇の中で、僕は笑った。眼球にぴったりと張り付くように広がる暗闇は、まるで、お母さんのお腹の中みたいだった。ここは悪魔のお腹の中で、僕はそこから再び生まれる。
そんな、感じだった。
その日から僕は、悪魔の子になった。
お母さんに「先生!」と呼ばれた男の人から目をつむるよう促され、僕は固く瞼を閉じる。そうして視界が閉ざされても、僕の正体を読み取ろうとする先生の汗ばんだてのひらが、僕の頭や、耳や、頬のすぐ近くを動き続けているのが、もやもやとした熱や、微かな風切り音で感じられる。
先生が「はっ……」と息を吸ったのが分かる。思わず目を開けた。僕の視界にまず飛び込んできたのは、先生が首から下げた金色のロザリオ。先生が後ずさりした反動でたゆたうロザリオの残像に、僕は一瞬、頭がクラクラとして、意識が遠のいていくような感じもした。
「もしかして、この子は……」
先生は、かたずをのんで見守るお母さんの方を振り返る。
「あなたの本当の子ではない……そうですね?」
お母さんは顎の下で指を絡み合わせたまま頷く。隣では、僕の前に先生の「透視」を受けた姉の京香が、中学校指定のスカートの端をつまらなそうに弄っている。
先生の預言は当たっている。僕は、お母さんの「本当の子」ではなかった。
今、先生の言葉に従順な弟子のように頷いているお母さんは、僕が1歳になったばかりの頃から僕を育てている。でも、僕を生んだお母さんは、別にいた。夜になるとこの家に帰って来るお父さんの妹が、僕を生んだお母さんだった。
僕を生んだお母さんは、僕がまだよちよち歩きをしていた頃に事故で亡くなった。流れの激しい川に落っこちて亡くなったというお母さんの遺体からは、大量のお酒と、薬が検出されたという。
僕はあまりに幼かったから、その時の記憶はほとんどない。ただ、お母さんがいなくなった後の、橋の地面や、生い茂った木々の隙間から吹き抜けてくる風がとても冷たかったことだけは覚えている。
僕はお父さんとお母さんの「本当の子」ではない。でも、先生の預言は、それだけでは終わらなかった。
「この子は呪われている」
先生の分厚い一重瞼が見開かれ、僕は怖かった。毎週日曜日に、お母さんと姉の京香と三人で通っている教会では、先生がこんな表情を見せることは無かった。教会に通う子供たちから慕われていた先生が、こんな風におかしくなったのは、いつからだろう?僕を育ててくれたお父さんと、お母さんが僕を怒鳴ったり、殴ったりするようになったのは、いつからだろう?
先生にシャツの上から両腕を鷲掴みにされて、僕は思わず顔をしかめる。袖に包まれた腕には、昨日できたばかりのアザがあった。お父さんが僕を殴る時、シャツやズボンの生地に隠れる部分を狙っていることを、僕は最近になって気付いた。
「ご主人の会社経営が上手くいかないのも、娘さんの学校生活が上手くいかないのも、すべてこの子の影響があるかもしれません」
先生の額に大粒の汗がいくつも浮かび、脂ぎった鼻の頭や、カサカサに乾いた唇の端をすべり落ちていく。「そう……かもしれません!」手のひらを組んだまま頷くお母さんの横で、姉の京香が、唇をむにゃむにゃと動かしてあくびを噛み殺す。お姉ちゃんの学校生活が上手くいかないのは、お母さんが教会の勧誘にお姉ちゃんを連れまわすからだ。お父さんとお母さんがいない時に、お姉ちゃんは「友達の家に連れていかれて嫌だ」「死にたくなる」と僕にこぼしていた。
「確か、裏庭に物置がありましたね?」
そう言って先生は、僕の腕を掴んで床から無理やり立たせる。思わず「いって!」と僕が叫ぶと、ほぼ同時にお母さんの平手打ちが飛んでくる。「静かにしなさい!」お母さんの唇から唾が飛び、僕は目を瞬くと熱い涙がこぼれた。別に辛いとか、悲しいというわけじゃないのだけれど、例えば全力で走ったら汗をかくように、僕は物心がついた頃から、お父さんやお母さんにぶたれると、僕の目からは自然と涙が溢れるようになっていた。
「この子が何か悪さをしたら、そこに閉じ込めておくように……」
先生が言い終わらないうちに、お母さんは物凄い力で僕を部屋から引っ張り出す。先生が「僕を閉じ込めておくように」と命じた物置には、お父さんが持っているゴルフクラブとか、パット練習用のマットとかがしまわれている。最近は、お父さんが休日にゴルフバックをしょって出かけることはほとんど無くなっていたが、僕を殴るためのゴルフクラブは、1階のリビングの壁と、2階の寝室の壁につねに一本ずつ立てかけられていた。
「京香も手伝いなさい!」
庭に出ると、物置で埃をかぶっていたゴルフクラブやバックを乱暴に放り投げるお母さんを、後ろで突っ立っていたお姉ちゃんも慌てて手伝う。僕はというと、逃げないよう先生に肩を掴まれたまま泣いていた。よく分からないけれど、僕の手足は震えて言うことを聞かなかった。
「なにも怖いことは無い」
頭の上から、先生の声がした。泣きながら僕は、別に怖いわけじゃない、と思った。お母さんに怒鳴られ、お父さんに殴られている時、僕の意識は、いつも自分の身体から少しずれた場所にあった。僕の意識は、まるで守護霊のように、怒鳴られ殴られている自分を俯瞰しているような感覚だった。
実際に殴られているときよりも、僕は通っている小学校で、先生や友達に服の下に隠れた傷が見つかって「真人くん、大丈夫?」と声を掛けられた時の方が、ずっとずっと辛い気持ちになった。そういう風に心配されると、僕は「君は普通じゃない」「可哀そうな子」という現実を突きつけられている気がして悲しかった。
「悪魔!」
空っぽになった物置に放り込まれると、乱暴に閉められた扉の向こうからお母さんが叫ぶ。
「私の子じゃない!
悪魔の子よ!アンタは……」
「真人くん!」
先生の声が重なる。
「これは君のためでもあるんだ!」
どうでも良かった。神様とか、悪を封じるとか、奇跡とか……。三人の、庭に敷き詰められた小石を踏む足音が遠ざかっていく。
そんなことよりも僕は寒かった。吐こうとする息が、喉の奥で震える。全身の震えを抑えようとして、てのひらで腕や足をさすり、固く目を閉じると熱い涙が滲んで、底冷えする僕の身体は、少しだけ温められた。
僕を生んだお母さんが欄干を超え、その下に流れる濁流の中に消える。橋の上に残された幼い僕が、引きちぎれんばかりの勢いで泣いている。はっきり覚えていないはずの光景が、閉じた瞼の裏側にぱっと広がる。鳥肌が立つ腕をおさえる指も冷え、ガクガクと震えだす。あの時の僕は、きっと、こんな感じだったんだろうな。ハイキングか何かでたまたまその橋を通りかかった人が通報して、僕は助かった。その場所は、普段はめったに人が通らないさびれた場所だったから、駆け付けたレスキュー隊員やお医者さんから僕は「奇跡の子」と呼ばれたらしい。
「奇跡の子」だった僕は、今日「悪魔の子」になった。目を閉じても開いてもほとんど変わらない暗闇の中で、僕は笑った。眼球にぴったりと張り付くように広がる暗闇は、まるで、お母さんのお腹の中みたいだった。ここは悪魔のお腹の中で、僕はそこから再び生まれる。
そんな、感じだった。
作品名:死刑囚の視点(④長谷川真人) 作家名:moshiro