Septum
片岡はスマートフォンの電源を切ると、ネクタイを傍らに置いた。スーツの前を開いたとき、ショルダーホルスターに吊られている拳銃のグリップがちらりと覗いた。おれは言った。
「最新型か?」
「そうでもない。お前の方こそ、そのグロックはなんだよ? テープで巻かないと、バラバラにでもなるのか?」
「選べないんだよ。私費で買うのはダメだって、初日に言われた」
おれは右手に握ったままになったグロック19を持ち上げた。先輩は安全装置がなくて危ない拳銃だから薬室の弾は抜いておけと言っていたが、言うことは聞かなかった。目に見えないだけで、実際には何重にも安全装置が内蔵されている。そんなことすら知らない人間が偉そうにあれこれ教えてくるのが、この仕事だ。十年振りとはいえ、片岡とこうやって話すと、それがいかに馬鹿らしいことか、身に沁みる。
「警備スタッフのリーダーは、グロックは危ないから薬室を空けとけって、言ってたよ」
そう言うと、片岡は口角を上げて、やがて声を出しながら笑った。
「その通りにはしなかったんだろ?」
「当たり前だ。言うことを聞いてたら、おれはこうやって喋ってない」
おれはそう言うと、片岡と目を合わせた。
「どうして、このビルに来たんだ? 誰かと約束があったのか?」
片岡は首を横に振り、その後も特に答えることはなかった。おれは、右手に握ったままのグロック19を見下ろした。
午前九時半、今から一時間前のことだ。業者の出入りが激しくなり、受付嬢が背筋を伸ばして応対を始めた。いつも通りの朝で、おれは近くのホテルから出社してきた出張組のサラリーマンと世間話をしていた。数年前にも一度訪れた杉本は役職が上がっていて、来週で一旦日本に帰りますと言っていた。そのとき、おれの目は一応エントランスに向いていて、頭は『次は部長になって戻ってくるんじゃないですか』というひと言を生み出していた。目は、トラックやバンの出入りと逆らっているように見える、どこからともなく現れた男を捉えていた。目的を持った人間の動線から逸れた人間というのは、仕事柄すぐに分かる。それに、見たことのない顔でもあった。
『失礼』
確かそう言ったと思う。おれは杉本に頭を下げて、本来の仕事に戻った。たった一時間前のことだ。今は、あれだけ賑わっていたロビーには誰もいない。片岡がおれのグロックに目を向けながら、言った。
「結局、何発撃ったんだ?」
「一発」
おれはそう答えて、左手に力を込めなおした。片岡は納得したようにうなずくと、前に向き直った。
「よく言われたよな。コンクリートなんかに当てやがったら、全部掘り起こすまで徹夜だぞって」
おれは笑った。上司は無駄弾に厳しいことで有名だった。潰れた弾頭であっても、そこから足がつくことは多々ある。輸送の仕事をしていたときは『銃は飾りじゃないぞ』と言っていたのに、仕事で銃を頻繁に使うようになったら、今度は『無駄に撃つな』と言う。その矛盾した要件は、まさにおれ達がやってきた仕事そのものだった。
「そのくせ、ガラクタみたいなイングラムを用意してきたりな。まあ、銃の腕は良くなった」
おれが言うと、片岡は歯を見せて笑った。
「よかったな、役に立って」
片岡は根っからの皮肉屋だが、今のは本心に聞こえた。おれはうなずくと、目の前に横たわってこちらを見返す死体と目を合わせた。
「本当にな」
見たことのない顔。失礼と言って、杉本との世間話を打ち切ったおれ。その間合いが縮まって目と鼻の先になるまでは、十秒程度だった。おれが声を掛けようとして手を差し出したとき、男は素早く手を引いた。グロックを抜くか、その男の頭の中を読み解くか、二択だった。おれは長年の勘で男の右手を掴み、そのまま地面に引き倒した。自分の体が折り重なったとき、男の上着の下に何が隠されているか、理解した。
「どうして、分かったんだ?」
言ったのは片岡だったが、死体が質問してきたように感じて、おれは思わず笑った。
「勘だよ」
男はおそらく、上着の下にロビーが瓦礫の山になる量の爆薬を巻いている。右手首に沿うようにコードが伸びていて、手にはスイッチが握られていた。おれはそれを左手で握り潰すように掴んだまま、右手でグロックを抜いて男の頭を撃ち抜いた。
何がどうなったのかよく分からないといった表情のまま死んだ男は、おれの目の前に横たわっている。その右手はまっすぐおれの方に伸びていて、右手親指は赤色のボタンスイッチを押し込んだままだ。その上から被さるのはおれの左手で、その手が離れないように掴み続けて、一時間が経った。昔から嫌と言うほど見てきたが、このタイプのスイッチは、押し込んだときではなく、離したときに起爆する。もちろん、それはあくまで想像の話で、時限装置が入っていれば一巻の終わりだ。だから、すぐにロビーにいた人間を全員避難させて、警察を呼ぶように伝えた。そして、受付嬢が出て行くときに『わたしで最後です』と言ったとき、大量の爆薬を目の前にしながら、不思議と安心感が湧いた。警察は爆弾処理班を呼ぶだろうが、この国の処理班は『解除』はできない。安全な場所までそろそろと持っていって、そこで起爆させるだけだ。
だとしたら、全員が避難した以上、おれが今この場で手を離しても別に構わないのではないか。この先のことを考えると、それも悪くないように思えた。爆発の瞬間に真っ白な閃光が走るのは、爆風から生き延びたことがあるから知っている。それで死んだとすれば、その光はいつまでも消えず、土煙も引いていかない。
それだけだ。
そう思い始めたとき、誰もいなくなったエントランスから片岡がふらりと入ってきて、隣に座った。そして、おれが手を離したら全てが塵になるという状況は変わらないまま、すでに三十分以上が過ぎている。おれは片岡に言った。
「おれの手が滑ったら、全部吹き飛ぶんだぞ」
「それは、いつものことだろ」
即答して、片岡は腕時計に視線を落とした。電車を待つように静かで、その仕草にはそつがない。そこには、自分だけは絶対に死なないと思っている人間だけに許される、優雅さがあった。ただ、その根拠がおれの左手に残された握力だというのは、あまりに頼りないように感じる。
「辞めてから、もう十年経ったんだ。どうして、今になってここに来たんだ」
そう言ったとき、花屋のロゴが入ったバンが外で急停車し、スライドドアが開いて四人組が降りてくるのが見えた。おれが目を凝らせると、片岡が待ちくたびれたように伸びをした。
「ヤキが回ってないか、顔を見に来ただけだ。上から頭のてっぺんを見ているだけじゃ、よく分からないからな」
退職後も監視されているだろうとは、思っていた。守秘義務契約書一枚では身を守り切れないぐらいの機密が、おれの頭の中には残っている。しかし、それをやっていたのが片岡だとは、想像すらしていなかった。
「ずっと、監視してたのか?」
おれが言うと、片岡は鞄を持って入ってきた四人組に手を挙げてから、苦笑いを浮かべた。
「人聞きが悪いな。衛星はタダじゃないんだぞ。自爆犯が入っていくのが見えて、さすがに諦めかけたよ」