乖離する吾
おれはおれを渇仰することでいつもそれを先延ばしにしてゐて、
鏡に映る醜悪なるそいつを直ぐにでもおれと認めれば良いのに違ひないのであるが、
いつまで経ってもナルキッソスにはなれぬおれは、
鏡に映るそいつをしておれだといふ事には本質的な抵抗感があり、
おれはおれを着ることに対して嫌悪を覚えてゐるのである。
ならばと、おれは鏡を抛り出しては、
おれといふものの素面の妄想に勤しむのであったが、
それは闇の中で進化を遂げた醜悪なる深海生物の妄想に等しく、
妄想の産物といふものが如何に醜悪であるかに関しては、
今更言ふに及ばず、
おれもまた、深海生物の如く異形の者として
此の世に屹立してゐるかもしれぬのである。
さっきからおれ、おれ、おれ、と言ってゐるそのおれは、
では一体全体何であるのかと問ふてしまふと、
それは野暮といふもので、
見事におれを逃がしてしまふおれは、
逃げゆくおれを追って頭蓋内の中では全速力で走ってゐるのであるが、
出口がない其処では、
きっとおれを捕まへられると
高を括ってゐるのであるが、
どうして、おれは金輪際、おれといふものを捕まへたことはないのである。
何故にかと言へば、
頭蓋内の闇、つまり、おれ流に言へば五蘊場は闇であり、
闇は無限を引き寄せる端緒になってしまふのである。
つまり、おれの素面は無限と言ふ広大無辺の中で自在に逃げ回り、
これまた金輪際、おれと出くはす馬鹿はせずに、
くっくっくっと気色悪い嗤ひ方をしながら、
おれの馬鹿さ加減を高みの見物を決め込んで見つめてゐるに違ひないのである。
そんなことには全く構はぬおれはといふと、
闇を木を彫るが如く彫りながら、何かの面を闇から彫り出すのであるが、
そいつがおれが待ち望んでゐたおれの素面とは限らず、
おれは陶芸家が失敗作を叩き壊すやうに
その闇を彫って出来た素面を叩き壊すのである。
さうして少しは鬱憤を晴らすのであるが、
肝心のおれの素面は一向に見つからず、
おれはのっぺらぼうとして此の世を彷徨ふ化け物の仲間入りをしてゐることに今更ながら気が付くのである。
早く人間になりたい、といふAnimation(アニメーション)があったが、
正しく現在のおれが現存してゐるのであれば、その言葉のままに存在してゐて、
おれは現在もまだ、人間になり切れぬまま、此の世を彷徨ふのか。
至福
何に高揚してゐたといふのか。
人生のどん底にありながら、
思考は固着し、
感情の起伏は消え、
何に対しても感情は平坦なままのそんな状況下で、
おれは絶えず高揚してゐたのだ。
どん底といふものは一度味はってしまふと、
もう落ちやうがなく、
とはいへ、それは底無しの絶望と背中合はせだったのだが、
おれはしかし、高揚してゐたのは確かなのだ。
ぼんやりと一日が過ぎてゆくだけの日常において、
おれに残ったのは、埴谷雄高と武田泰淳とドストエフスキイの作品の残滓であったのだが、
しかし、おれはそれで既に至福だったのだ。
既に論理的なる思考など出来なくなって錯乱状態にあったおれは、
あれほど大好きだった哲学書は最早読めず、
文章も一文すら書けなくなったその時にこそ、
至福であったのは間違ひないのである。
何が絶望のどん底にあったおれをして高揚させ、至福の中に置いたのか。
生きる屍と化したおれではあったが、
それでも生のみは離さずに、
何とか生き延びられたおれは、
そんな状況下において馬鹿らしい希望でも見出してゐたといふのか。
いや、あの頃のおれに希望は全くなかったのだ。
それ故におれは至福であったと言へるのだ。
絶望のみの中にあると、人間は呆けてしまひ、
恍惚としてゐるものなのだ。
だからと言ってあの頃に戻りたくもないが、
しかし、あの頃の至福に比べると現在は、至福とはほど遠く、
白濁した絶望がこの小さな胸奥に棲み着いてゐる。
そして、その白濁した絶望はといへば
性器をピストン運動させて夢精する如くに吐き出せれぱ、
きっと虚しいおれが登場するのみなのだ。
しかし、それで良いではないか。
それが至福といふものなのだ。
十六夜の夜に追ひ込まれて
吸ひ込まれるやうに
女の裸体にむしゃぶりつきながらも、
心ここにあらずのおれがゐた。
それでも女の裸体から発せられる媚薬の匂ひに誘はれて、
男性器はおれの虚ろな心模様とは別に勃起しながら、
しっかりと女を悦ばせることには長けてゐるのだ。
さうして何とも名状し難い虚しい性交を繰り返しながら、
十六夜の夜は更けてゆく。
女の裸体を見てしまふとどうしても抱かずにはゐられぬだらしがないおれは、
さうやって時間を潰し、
既に夢魔にどん詰まりまで追ひ込まれてゐる強迫観念にも似たその感覚に対して
おれは夢魔に挑戦状を投げつけたのだ。
――う~ん。
と喘ぐ女に対しておれは、尚も腰をふりふり女の子宮を男性器で突き上げるのであったが、
女が性交に没入すればするほどにおれは反吐を吐きさうになるこの矛盾に、
苦笑ひを浮かべて、更に膣の奥まで男性器で突き上げるのだ。
怯へてゐるのか。
あの夢魔に対しておれは怯へてゐるといふのか。
へっ、と自嘲の嗤ひを浮かべては、
その悪夢を振り払うやうに悶える女の恍惚の顔を見ながら
――来て~え。
といふ女の言葉を無視するやうに
おれは更に強烈に腰を振りながら、
女が失神するまで待ってゐるのだ。
恍惚に失神する女ほど幸せなものはないに違ひないが、
しかし、女といふものは、子を産んだときほど美しいときはないのだ。
さうと知りながら、焦らしに焦らしておれは女が失神する様を見届けたかったのだ。
成程、さうすることで、夢魔のことが忘れられると錯覚したくて、
おれは愛する女を抱いたに違ひなかった。
心ここにあらず故におれの射精は遅漏を極め、
何度も女は失神しては、
性器と腹部をびくびくと痙攣させながら、
それでもおれの腰使ひには反応するのだ。
夢魔よ、お前は今も尚、百年前には通じた神通力が今も通じるなんて思ってやしないだらう。
それを確かめたくておれはお前に挑戦状を投げつけたのだ。
今度は何時おれのところにやって来るのか。
その時こそがこのどん詰まりまで追ひ詰められたおれの呪縛を解放する契機となるのだらうか。
さて、おれは一体何に追ひ詰められてゐたのだらうか。
と、そんなとぼけたことを思って女の性器を突いてゐたのだ。
おれは既におれの世界の涯へと追ひ詰められてゐて、
おれの世界認識の誤謬に脳天を叩かれた如くに
あのにたり嗤ひを浮かべた夢魔にその誤謬を指摘され、
何にも反論出来やしなかったのだ。
それが仮令夢の中の出来事とはいへ、
おれの世界認識は間違ってゐたのか。
――あっあっあっあ~あっ。
愛する女は声にならない喘ぎ声を絞り出すよやうに
おれの射精を待ってゐた。
かうして性交をしてゐる男女こそが世界の端緒であり、
かうして 世界は生れるに違ひないのだ。
「ほらほら」
と、まだまだ射精するにまでには興奮出来ないおれは、
一度、女性器から男性器を抜いて、
女性器を嘗め回すのであった。
――いや~ん。
と性器をびくつかせながら、
女は泣き喚き、
――来て。