乖離する吾
ふむ。何処ぞで鐘が鳴ってゐる。
ゆらりと揺れる此の身の行く末に対する祝福の鐘の音なのか。
ゆやーんとなるその鐘の音は、
それにしては寂し過ぎる。
へっ、もともと此の身の存在は寂しいものである事は百も承知とはいへ、
鐘の音こそが漸減するものの象徴ではないのか。
ゆっくりとしじまへと変容する鐘の音は、
消えゆく美学を表はしてゐる。
存在もまた、鐘の音の如く
最期には存在の残滓すら残さずに
無へと貫徹するものなのか。
ゆやーん。
漸減する鐘の音に吾が存在を重ねたところで、
それは結局は虚しいものであり、
ちぇっ、そんな事は結局忌忌しい感情を吾が身に残して
存在に対する憤懣となって吾が存在を自虐するだけなのだ。
Masochism(マゾヒスティック)な輩はそれはそれで悦楽を得られるかも知れぬが、
大抵の存在は、それに我慢がならぬのだ。
ゆやーん。
ええい、五月蠅い。
ちぇっ、鐘の音に対して八つ当たりをしたところで、
それもまた虚しいだけか。
いくつもの周波数が綯ひ交ぜになり、
心地よい音となって
ゆやーんと響く鐘の音は、
遠く遠くへと響いて行くのだ。
ごーん。
別れ話においての優柔不断
――はっきりと決めてください。
さう言って彼女は不意に別れ話を切り出した。
その刹那、おれは何にも決められぬ己の優柔不断に腹を立てながらも、
既に、彼女との別れを望んでゐた己の狡さを押し隠しては、
只管に黙して何にも語らなかったのだ。
――狡いのね。
ぎろりとこちらを見ながら彼女はさう言った。
何もかもお見通しか。
今更ながら知らぬ存ぜぬを貫き通すことは不可能といふ事か。
ならばと俺はぽつりと呟いた。
――あなたの好きなやうにしてください。
――本当に狡いのね。私が決められるわけがないぢゃない。さうやって何時もあなたは逃げてきたわね。
つまり、彼女はまだ、俺を好いてくれてゐたのであったが、
今のままの状態では最早二人の関係を続けてゆくことは不可能だ、と迫ってゐるのだ。
そんなことなど気が付かぬ振りをしながら、おれは彼女につれないまま、
再び黙して何にも語らうとしなかった。
この痴話話において、おれは、存在に触れることができたのであらうか。
彼女とおれの関係から何か目新しいものがあったのであらうか。
ふっ、これがおれのつまらぬところなのだ。
何事も大袈裟に存在に関係するものとして考へなければ、
事態が全く呑み込めぬおれは、
全く下らない人間で、
彼女が愛想を尽かすのも致し方ないことなのだ。
その上優柔不断と来てゐる。
これぢゃ、どんな人間だっておれに愛想を尽かすのは当然なのだ。
ところで、おれの思ひは決まってゐながら、おれは別れが切り出せぬ。
――私は安心してお付き合いできる人を探します。
へっ、おれは危険な人間なのか。
成程、確かにおれはおれに対してはとっても危険極まりない存在には違ひないとは思ふが、
事、他人に対しては人畜無害で、何にもありはせぬのだ。
しかし、差うおもってゐるのはおれだけなのかも知れぬ。
では何故、彼女は別れをここに来て切り出したのかと言へば、
それは、私の倫理的なる美意識に対して嫌悪しか催さなくなってしまったからだ。
その倫理的なる美意識とはなんぞやと問はれれば、
それは情動に溺れたいのにそれを圧殺し、
さうして情動の衝動に対して恥じ入るばかりの愚行を行ふ見栄を張るからなのだ。
衝動のままに性交がしたかった彼女にとって、おれの屈折した性的欲求は、
彼女の我慢がならぬ有り様であり、詰まるところ、彼女の欲求不満は憤懣へと昇華して、
おれをぶん殴らなければ、自分を正常に保てぬ自分が嫌ひで仕方がなかったのだ。
――もう、私の嫌な面を見たくないの。
さう続けた彼女は、私の頬を一発びんたして私の元から去ったのである。
其処で彼女を追へば、まだ、彼女との関係は続いたに違ひないが、
おれは終ぞ彼女を追ふことなく、
優柔不断のまま、黙して一歩たりともその場から動かなかったのであった。
腰痛
ぎっくり腰か、
此処のところ腰痛に難儀してゐる。
それとも内臓に病気でもあるのか、
この腰痛はどうやら長く尾を引きさうだ。
しかし、動くことにさへ難儀してゐるこの状態を楽しんでゐるおれがゐるのだ。
不自由な自由を、不自由故に自由な状態を意識せざるを得ぬこの状態が何とも愛おしいのだ。
存在は不自由に置かれずば、自由の何たるかをちっとも考へぬ怠け者で、
たぶん、何万年も動けぬ事を強ひられる巌こそ、
むしろ自由の何たるかを知ってゐる筈なのだ。
さう考へると、おれといふのは何と恵まれてゐる存在なのだらうか。
例へば、眼前に一つの石ころがあるとする。
さて、仮におれの命が無限といふ寿命を与へられてゐるとすれば、
眼前の石ころはやがて風塵へと変容することは何となく予想が付くが、
さて、存在の変容はそれでは済まず、
風塵はやがて此の地球の消滅時、つまり、太陽が爆発するときに
強烈な高温に晒され、再び巨岩の一部に組み込まれるか、
または、元素が強烈なEnergyで変容を強ひられた別の重い元素に変はるかに違ひないのだ。
さうして輪廻しながら、存在はその本質すら変へながら、
これ以上自らでは支へられぬ不安定な物質に変容するまで、
重い元素へと変容をしつつ、そして、再びへ崩壊してゆくものなのだ。
つまり、無限の長さを一つの定規とすれば、
あらゆるものは何らかへと変容させられ、
其処に自由は決してあり得ぬものなのだ。
ならば自由は何処にあるのかと言へば、
それは内部にしかないのだ。
内的自由といふ言葉はもう擦り切れるくらゐ遣ひ古された言葉の一つだが、
皮袋で囲まれたこの内部といふ影、つまり、闇に沈んだ内的な場でのみ、
時空を飛び越えながら自在に思考を巡らせることが可能で、
これは森羅万象いづれも変はらずに持ち得てゐる《自由》の一つの形なのだ。
へっ、内的自由で妄想を飛躍させたところで、
現実は何ら変はらぬぜ、
と半畳を入れるおれは、
だから、と嘯くのだ。
しかし、とおれは呟き、
――しかし、内的自由での変容がなければ、つまり、内的自由での超越論的変容なくしては現実も変へられぬぢゃないか。
――超越論的変容?
――つまり、ご破算と言ふことさ。
腰痛にヒイヒイと言ひながらつらつらとこんな馬鹿らしい自己問答に勤しむおれは、
なんと自由なことか。
渇仰
飢ゑてゐる時ほどに寒寒と身体が冷えつつも、
眼光だけは鋭く、
何ものも逃してはならぬといふ覚悟の下、
おれはまだ、それを渇仰してゐるのか。
それとは所謂、素顔のおれなのであったが、
そんなものは既に鏡越しに見ている筈なのであった。
しかし、乖離性自己同一障害といふ病にあるおれは、
その鏡に映るおれらしき面に唾を吐き、
けっ、と軽蔑の目を鏡に映る面に向けて
おれは素顔のおれを渇仰せずにはをれぬのだ。
何をしておれはおれと言ひ切れる状況へとおれを誘ひ出すことが出来、
おれをその時に捕獲することが可能なのだらうか。
いつまで経っても此の飢ゑに対して堪へ忍ばなければならぬこの身の哀れを