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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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乖離する吾

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全てが必ず衰滅するべきものであるといふことで
その存在の有様はやうやっと赦されるのだ。

その時、時間の連続性が担保されなければ、
存在の有様は一変する筈だ。
さうであって初めて
おれは生き生きと此の世で闊歩できるのだ。

びよーんと引き延ばされた時間に
思考が何回回転できるかで、
仮に主体の生存の秘訣が隠されてゐるとして、
回転が時間の本質にも関係してゐると無理矢理看做せば、
時間はその場合必ず非連続であり、
それが自然な見方だと思ふのだが、
実際、時間がびよーんと引き延ばされたかのやうに感じることはあって、
その時、過去の記憶が走馬燈の如く甦るSlow motion(スローモーション)の時の流れが現前するのだ。

時間は伸縮自在であることは経験から誰もが知るところであるが、
しかし、それが連続の根拠とはならぬのだ。

むしろ、時間もまた、非連続であることの方が”自然”で、
例へば生物が絶滅することが自明の理ならば、
時間もまた、絶滅し、
さうして遠い記憶は失はれてゆくのだ。

さて、時間が時間において衰滅するならば、
時間もまた非連続である可能性が高いと思はぬかね。










誤謬する差異

数学が抽象的故に信頼を持ち得ると言ふ誤謬を
もう哲学者を名乗る以上は哲学者は気が付かなければならぬ。

何でも数学に還元する悪癖は、
哲学者によく見られる誤謬の一つなのだが、
抽象的でありながらとっても信頼できる典拠の一つとして
数学に全的に寄りかかる哲学的言説は殆どが誤謬であることにもっと敏感であるべきなのだ。
数学も煎じ詰めれば、世界解釈の一つの方法でしかなく、
数学的世界解釈が、思考の指針になり得るなどと言ふ傲慢は
世界に敷設された陥穽の一つでしかないのだ。

論理的なる言説を保証するのに数学が適してゐるといふこともまた、
哲学者の心に魔が差したとしか言ひやうがなく、
それ程に数学は魅力的なのだが、
しかし、数学は唯、世界をなぞってゐるだけに過ぎず、
新=世界を予感させることは皆無なのだ。

現=世界の解釈に世界をなぞるしかない数学に依拠する暴挙は、
堂堂巡りを論理形式の基礎としなければ、
その哲学的言説は誤謬の外なく、
また、数学に依拠をする哲学的言説は
堂堂巡りでなければ、それは虚偽的なる虚構としか言ひやうがないのだ。

哲学はお伽噺ではないだらう。

ならば、例へば、ドゥルーズの『反復と差異』は、
その微分を用ゐた数学的解釈が味噌なのだが、
しかし、それはとんでもない誤謬の根源で、
数学的な反復と差異で論理的な反復と差異を語るのは語るに落ちるといふものでしかなく、
数学的なる反復と差異はそれは永劫をも射程に入れたものなのであるが、
それは表記可能な”現象”若しくは”状態”であり、
しかしながら諸行無常といふ此の世の本質は全く無視されてゐるのだ。

つまり、哲学に数学的な言説を用ゐるのは、
此の世の原理を捻じ曲げて、若しくは無視することを意味し、
それが抽象的ならば尚のこと、
此の世の原理を無視する誤謬の哲学なのだ。

そんな単純な話でない、と言ふ半畳が此処で入ると思はれるが、
ドゥルーズは敢へて数学を誤謬して用ゐてゐて、
その”ずらし”に煙を撒かれる人は、
幸せな人に違ひないのだ。

数学は魅力的だが、その魅力に溺れる哲学者は、
Rail(レール)に敷かれた筋道を歩いてゐるのみで、
其処に独創はない。

哲学は、数学よりも先んじてゐる筈で、
数学が哲学よりも先んじてゐる世界認識は、
どの道、終着点が見えてゐて、
残るは解釈のみでしかない。

それにしても、数学は今や神話へと昇華してしまったのだらうか。
神をも恐れぬ数学がお通りだ、と
其処に智が蝟集してゐるといふのか。

造化を紐解くには象徴記号と数字の結晶ではなく、徹頭徹尾言葉である筈で、
それ故に”初めにLogos(ロゴス)ありき”な筈に違ひないのだ。











時間の矢なんぞ嘘っぱちである

時間を特別扱ひして、
それが虚時間だとしてもその有り様は一次元に収めてしまってゐるので、
其処から時間は”時間の矢”として表象されるのであるが、
時間は経過した差異により数値化される。
しかし、それが正しいと言ふ根拠は何処にもないのである。

時間は先験的な事象故にその表象は数直線的かつベクトル的であるのであるが、
時間もまた振動子として捉へることが自然なのである。

Analogue(アナログ)時計を例に出せば、
短針長針が時計回りで回ることで時間の経過が計れるが、
回転は振動以外の何ものでもないことは三角関数を知っている人であれば解る筈である。
デジタル時計は例えば古いところでは水晶の振動数により時間の経過を表してゐたのである。
つまり、時間の矢なんぞ嘘っぱちで、
時間もまた一つの振動子の連なりでできてゐると考へた方がとっても自然なのである。

なのに、何故か、時間は今に至るまでその表記は全く変はらず、
Δtといふ“差異”により数値化されるので、
其処には微分積分の這ひ入る余地が残されてゐたのであるが、
ニュートンも時間を先験的な事象とせずに
よくよく考へて時間もまた振動子と、つまり、ライプニッツの見方を少しでも取り入れれば、
物理学は時間に対して手出しができないやうな柔な学問になってゐる筈はないのだ。

また、現行の世界認識は時間を振動子として捉へれば、
全く変はる筈である。
時間を振動子として看做したならば、
世界認識は現行の世界として現はれる筈はなく、
別=世界、例へば渦巻きが此の世の一単位として立ち現はれ、
さうすると、自然は渦巻き相似体として存在するのである。
つまり、此の世は渦巻きが自然な在り方で、
何ものも諸行無常の宿命を背負って此の世にある渦巻きとするならば、
渦巻きは何時かは回転を止めて衰滅するのである。
つまり、時間もまた、衰滅する。
さうして、世界は屹立するのだ。
そして、世界もまた、ちぇっ、衰滅するのだ。


漸減

粘性や摩擦により状態が漸減することで
此の世はまともに機能することが此の世の摂理である。
漸減せずに慣性の法則が純粋に成立する世界は滅茶苦茶な世界であって、
何事も漸減しなければ、それは即破滅なのだ。
それを善としないのであるならば、
ゆっくりと命が死へ向かって漸減するのを俟つ迄もなく、
今直ぐに死んでしまへ。
それがお前の美学ならばそれもまた善し。

だが、大抵の存在は此のゆっくりと漸減し変容する存在に
時には我慢して折り合ひを付けてゐるものなのだ。
さうしなければ、存在が存続しないことを身を以て知ってゐるので、
齢を重ねるごとに命が磨り減り漸減してゆく事といふ現実を吾は受容するものなのだ。

さうして時時刻刻と存在の余命を削りながら、
存続することを選ぶ存在は偏に慣性の法則が純粋な意味で成立しない此の世の摂理を、
つまり、諸行無常に身を任せ、即ち他力本願のものとして、
不本意ながらも存在する事に恥じ入りつつも、
明日よも知れぬ吾が命が今日も存続した事に対して
一日の終はりには必ず胸を撫で下ろして、
私の力では何ともし難い他力を拝するものなのだ。
作品名:乖離する吾 作家名:積 緋露雪