乖離する吾
ぼんやりとした恐怖
そこはかとなく、心の奥底から湧いてくる幽かな感情は恐怖だったのかも知れぬ。
おれが此の世に存在することの意味を問ふ馬鹿はもうせぬが、
存在するだけで恐怖を感ずるのはとても自然なことなのかも知れぬと思ひつつ、
おれは意気地がなく、おれがここにあると断言できぬのだ。
その曖昧なおれの有様に業を煮やしたおれは、
おれを口汚く罵るのであるが、
そのMasochistic(マゾヒスティック)な好みは天賦のものなのか、
何ら苦痛に感ずることなく、
むしろ其処に快楽を感じてゐるおれがゐるのだ。
おれが此の世に存在することはそれだけでおれに恐怖を呼び起こす因として、
おれが仮に受け容れたとしてもこの幽かな恐怖はいつまで経っても消えぬだらう。
――それでいいのだ。
と、肯定するおれもゐなくはないのであるが、
だからといってこの幽かな恐怖から遁れることはなく、
いつも絶えずおれを追ってくるのが、この恐怖と言ふ感情なのだ。
おれがゐるといふこの認識はたぶん間違ってゐるのかも知れぬが、
それでもおれがあると言ふこの感覚は消せぬのだ。
消ゆるといふことにれてからどれほどの星霜が消え去ったのだらうか。
しかし、夕日が沈むやうに消えたとして朝日が昇るやうにはおれは生き返りはしない。
その一方通行の死にいつでも憧れ、
魂魄が口から飛び出すやうに此の世に彷徨ひ始めるその刹那、
Thanatos(タナトス)を現象としては味はへるが、
此の世を彷徨ふこの意識はたぶん無いに違ひない。
あるのは、おれがあると言ふ感覚だけで、
おれの魂魄は満足できず、
それ故に彷徨ふのか。
それでも、そんな夢物語を思ひ描いた処で
いつでも死ねると言ふことのみを希望にして、
おれはかうして生き延びてゐるのだ。
――ちぇっ、下らねえ人生だな。
焦燥
何をそんなに急ぐ必要があるのか。
此の焦燥感は何ものも留めることはできぬのか。
それとも、このおれと言ふ存在に我慢がならぬのはまだ善としても、
おれが焦燥感に囚はれて、
無鉄砲なことを何時しでかすかと杞憂に囚はれているのか。
巨大な黒蟻の大群がおれを喰らふために襲ってこないかと
おれは恐れてゐるのか。
馬鹿らしいとは重重承知してゐるとしても、
おれは白昼夢を見ることが大好きなやうで、
巨大な蟻の大群がおれを狙ってゐることでしか生の感触を味はへぬこの不感症なおれは、
既にその巨大な黒蟻の大群に喰はれてゐるのかもしれぬ。
この幻視を以てしておれの存在の感触をおれは味はふ歓びに浸りながら、
喰はれ行き、そして虚空に消ゆるおれの行く末におれは歓喜の声を上げると言ふのか。
そして、其処にのみおれの求めるものがあると言ふのか。
喫緊に希求してゐるものは、
おれをして現はれる幻視でしかないのか。
それでは一時も生き永らへることはできぬといふことを知りつつも、
ブレイクのやうな幻視の世界を希求せずにはをれぬおれは、
ないものりの駄駄っ子に過ぎず、
だから、世界はおれを中心に回ってゐるといふ傲慢な考へに何の疑念も抱けぬのだ。
幻視の世界は、つまり、おれなくしてはあり得ぬことが唯一の慰みで
さうして慰撫するおれのな有様は、
だからなお一層、巨大な黒蟻を欣求するのだ。
死んだ雀が大群の蟻に喰はれるやうに
おれも喰はれるといふ陳腐な幻想は、
しかしながら、おれに安寧を齎す。
何故にそんなに焦ってゐるのか。
おれが此の世に存在することに焦ってしまってゐると言ふのか。
それは、しかし、逃げ口上に過ぎぬのだ。
どんなに焦燥感に駆られたからと言って、
ちえっ、おれが巨大な黒蟻の大群に喰はれると言ふ幻視に埋もれることで、
おれが生き生きすると言ふ不条理に、
詰まるところ、おれは酔っ払ってゐるに過ぎぬのか。
それでいいのか。
と、自問するおれは、やはり、おれの存在を消すことばかりに執着するのだ。
乖離性自己同一障害といふ病
おれと言ふことに途轍もない屈辱を感ずるおれは、
もう手遅れに違ひない。
それを仮に乖離性自己同一障害と名付ければ、
この病はキルケゴール曰く処の「死に至る病」の変種に過ぎぬのかも知れぬ。
乖離性自己同一障害は果てることを知らぬ絶望におれを追ひ込み、
さうして死へと一歩一歩近付けてゆく。
もう、乖離性自己同一障害に陥ると、
その蟻地獄からは何ものも遁れられぬのだ。
だからといっておれはおれを已められず、
違和ばかりが募るおれをして生き長らへるおれは、
何時如何なる時もおれに対して猜疑心の塊と化すのだ。
近未来において、脳を丸ごと入れ替へ可能な時代が来たとして、
此の乖離性自己同一障害は治る見込みはないのだ。
これは屈辱しか齎らさぬが、
仮令、脳を入れ替へたところで、
その時はおれは「他人」になり、
最早乖離性自己同一障害の範疇から遁れるのだ。
意識が連続性を失ふ非連続的なものならば、
おれは少しは慰みを感じられるかも知れぬが、
意識は此の乖離性自己同一障害のおれにとっても
記憶が付随する形で自己同一を絶えず迫るのだ。
これが一番辛いのかも知れぬ。
記憶によって意識が連続的であると言ふその現象に、
おれは何時も戸惑ふのであるが、
おれを容れる容器たるおれの軀体は
果たして意識が全能性を欣求するその欲求を満たせるのかと言ふと、
乖離性自己同一障害のおれにとっては、
それは望むべくもなく、
意識は忌避すべきものなのだ。
とはいへ、意識を忌避できたとして、
おれがおれであることを認識する悪癖は、
決して治ることはなく、
そのことで自意識は芽生えてしまふのだ。
この堂堂巡りに終止符はなく、
死後も尚、おれはおれであり続ける筈なのだ。
それは頭蓋内の漆黒の闇が此の世に存在する限り、
その闇の中での発光現象の記憶が闇に刻み込まれてゐて、
闇が此の世に存在する限り、
おれはおれとして続くのだ。
これは何とさもしいことか。
連続は維持すべきものなのか
おれがおれであることを”連続”したものとして認識するおれは、
決定的に何かが欠落してゐると思へ。
それが此の世に対するおれの最高のもてなしなのだ。
おれが連続してゐるなんぞまやかしに過ぎず、
記憶といふ過去世の存在が辛うじて保たれてゐることで、
おれがおれであると無理矢理おれの悟性がおれをでっち上げてゐるこの現状は、
誤謬と思った方がいい。
そもそもおれと言ふ存在は既に解体されて、
その”死体”を晒してゐるぢゃないか。
主体の死屍累累の山は、
おれの過去世に堆く積まれて、
あったかも知れぬ主体の骸にその悍ましき怨念が宿ってゐる。
さて、時間は時間において衰滅するものなのか。
ならば、時間は非連続ではないのか。
かう問ふたところで時間の無駄なのかも知れぬが、
しかし、この問ひは非常に重要で、
時間が非連続なものであるならば、
認識論はその根底から崩れ去り、
そもそもおれが連続である根拠を喪ふ。
時間が時間において衰滅するならば、
それもまた乙なもので、
此の世が永続的でないことの証左が示され、
苦は少しは和らぐ筈だ。
諸行無常であることで、
救はれる主体と言ふ存在形式は、
そこはかとなく、心の奥底から湧いてくる幽かな感情は恐怖だったのかも知れぬ。
おれが此の世に存在することの意味を問ふ馬鹿はもうせぬが、
存在するだけで恐怖を感ずるのはとても自然なことなのかも知れぬと思ひつつ、
おれは意気地がなく、おれがここにあると断言できぬのだ。
その曖昧なおれの有様に業を煮やしたおれは、
おれを口汚く罵るのであるが、
そのMasochistic(マゾヒスティック)な好みは天賦のものなのか、
何ら苦痛に感ずることなく、
むしろ其処に快楽を感じてゐるおれがゐるのだ。
おれが此の世に存在することはそれだけでおれに恐怖を呼び起こす因として、
おれが仮に受け容れたとしてもこの幽かな恐怖はいつまで経っても消えぬだらう。
――それでいいのだ。
と、肯定するおれもゐなくはないのであるが、
だからといってこの幽かな恐怖から遁れることはなく、
いつも絶えずおれを追ってくるのが、この恐怖と言ふ感情なのだ。
おれがゐるといふこの認識はたぶん間違ってゐるのかも知れぬが、
それでもおれがあると言ふこの感覚は消せぬのだ。
消ゆるといふことにれてからどれほどの星霜が消え去ったのだらうか。
しかし、夕日が沈むやうに消えたとして朝日が昇るやうにはおれは生き返りはしない。
その一方通行の死にいつでも憧れ、
魂魄が口から飛び出すやうに此の世に彷徨ひ始めるその刹那、
Thanatos(タナトス)を現象としては味はへるが、
此の世を彷徨ふこの意識はたぶん無いに違ひない。
あるのは、おれがあると言ふ感覚だけで、
おれの魂魄は満足できず、
それ故に彷徨ふのか。
それでも、そんな夢物語を思ひ描いた処で
いつでも死ねると言ふことのみを希望にして、
おれはかうして生き延びてゐるのだ。
――ちぇっ、下らねえ人生だな。
焦燥
何をそんなに急ぐ必要があるのか。
此の焦燥感は何ものも留めることはできぬのか。
それとも、このおれと言ふ存在に我慢がならぬのはまだ善としても、
おれが焦燥感に囚はれて、
無鉄砲なことを何時しでかすかと杞憂に囚はれているのか。
巨大な黒蟻の大群がおれを喰らふために襲ってこないかと
おれは恐れてゐるのか。
馬鹿らしいとは重重承知してゐるとしても、
おれは白昼夢を見ることが大好きなやうで、
巨大な蟻の大群がおれを狙ってゐることでしか生の感触を味はへぬこの不感症なおれは、
既にその巨大な黒蟻の大群に喰はれてゐるのかもしれぬ。
この幻視を以てしておれの存在の感触をおれは味はふ歓びに浸りながら、
喰はれ行き、そして虚空に消ゆるおれの行く末におれは歓喜の声を上げると言ふのか。
そして、其処にのみおれの求めるものがあると言ふのか。
喫緊に希求してゐるものは、
おれをして現はれる幻視でしかないのか。
それでは一時も生き永らへることはできぬといふことを知りつつも、
ブレイクのやうな幻視の世界を希求せずにはをれぬおれは、
ないものりの駄駄っ子に過ぎず、
だから、世界はおれを中心に回ってゐるといふ傲慢な考へに何の疑念も抱けぬのだ。
幻視の世界は、つまり、おれなくしてはあり得ぬことが唯一の慰みで
さうして慰撫するおれのな有様は、
だからなお一層、巨大な黒蟻を欣求するのだ。
死んだ雀が大群の蟻に喰はれるやうに
おれも喰はれるといふ陳腐な幻想は、
しかしながら、おれに安寧を齎す。
何故にそんなに焦ってゐるのか。
おれが此の世に存在することに焦ってしまってゐると言ふのか。
それは、しかし、逃げ口上に過ぎぬのだ。
どんなに焦燥感に駆られたからと言って、
ちえっ、おれが巨大な黒蟻の大群に喰はれると言ふ幻視に埋もれることで、
おれが生き生きすると言ふ不条理に、
詰まるところ、おれは酔っ払ってゐるに過ぎぬのか。
それでいいのか。
と、自問するおれは、やはり、おれの存在を消すことばかりに執着するのだ。
乖離性自己同一障害といふ病
おれと言ふことに途轍もない屈辱を感ずるおれは、
もう手遅れに違ひない。
それを仮に乖離性自己同一障害と名付ければ、
この病はキルケゴール曰く処の「死に至る病」の変種に過ぎぬのかも知れぬ。
乖離性自己同一障害は果てることを知らぬ絶望におれを追ひ込み、
さうして死へと一歩一歩近付けてゆく。
もう、乖離性自己同一障害に陥ると、
その蟻地獄からは何ものも遁れられぬのだ。
だからといっておれはおれを已められず、
違和ばかりが募るおれをして生き長らへるおれは、
何時如何なる時もおれに対して猜疑心の塊と化すのだ。
近未来において、脳を丸ごと入れ替へ可能な時代が来たとして、
此の乖離性自己同一障害は治る見込みはないのだ。
これは屈辱しか齎らさぬが、
仮令、脳を入れ替へたところで、
その時はおれは「他人」になり、
最早乖離性自己同一障害の範疇から遁れるのだ。
意識が連続性を失ふ非連続的なものならば、
おれは少しは慰みを感じられるかも知れぬが、
意識は此の乖離性自己同一障害のおれにとっても
記憶が付随する形で自己同一を絶えず迫るのだ。
これが一番辛いのかも知れぬ。
記憶によって意識が連続的であると言ふその現象に、
おれは何時も戸惑ふのであるが、
おれを容れる容器たるおれの軀体は
果たして意識が全能性を欣求するその欲求を満たせるのかと言ふと、
乖離性自己同一障害のおれにとっては、
それは望むべくもなく、
意識は忌避すべきものなのだ。
とはいへ、意識を忌避できたとして、
おれがおれであることを認識する悪癖は、
決して治ることはなく、
そのことで自意識は芽生えてしまふのだ。
この堂堂巡りに終止符はなく、
死後も尚、おれはおれであり続ける筈なのだ。
それは頭蓋内の漆黒の闇が此の世に存在する限り、
その闇の中での発光現象の記憶が闇に刻み込まれてゐて、
闇が此の世に存在する限り、
おれはおれとして続くのだ。
これは何とさもしいことか。
連続は維持すべきものなのか
おれがおれであることを”連続”したものとして認識するおれは、
決定的に何かが欠落してゐると思へ。
それが此の世に対するおれの最高のもてなしなのだ。
おれが連続してゐるなんぞまやかしに過ぎず、
記憶といふ過去世の存在が辛うじて保たれてゐることで、
おれがおれであると無理矢理おれの悟性がおれをでっち上げてゐるこの現状は、
誤謬と思った方がいい。
そもそもおれと言ふ存在は既に解体されて、
その”死体”を晒してゐるぢゃないか。
主体の死屍累累の山は、
おれの過去世に堆く積まれて、
あったかも知れぬ主体の骸にその悍ましき怨念が宿ってゐる。
さて、時間は時間において衰滅するものなのか。
ならば、時間は非連続ではないのか。
かう問ふたところで時間の無駄なのかも知れぬが、
しかし、この問ひは非常に重要で、
時間が非連続なものであるならば、
認識論はその根底から崩れ去り、
そもそもおれが連続である根拠を喪ふ。
時間が時間において衰滅するならば、
それもまた乙なもので、
此の世が永続的でないことの証左が示され、
苦は少しは和らぐ筈だ。
諸行無常であることで、
救はれる主体と言ふ存在形式は、