乖離する吾
もう意識はそればかりにこだわり、
盲目になるばかり。
それだけそれは権威の象徴なのであった。
それの名は絶望。
それは何時も不意に来襲してきておれを蹂躙し尽くすのだ。
それは別に構はないのであるが、
ただ、哀しみをおれに残すのは堪へられぬのである。
――ほらほら、どけどけ。
と、おれの中ではそれはお通りするが、
このおれの中の可愛いの頂点に君臨するそれは、
世界からすればおれのそれは塵芥の類ひに過ぎぬが、
しかし、おれにとってはそれは宇宙に匹敵する程の重さを持ってゐて、
何時でも思考の中心に坐すのだ。
しかし、おれはそれを崇めてゐるのかと言へば、
そんなことは全くなく、
それが粘着質なために、おれの心を掻き乱すに過ぎぬ。
しかし、一方で、おれは絶望することに溺れるのに快楽を見出してゐるのかも知れぬと思はないこともなかったが、
それはそれでいいと、突き放してゐるのだ。
絶望のそれに対して更なるそれを招き寄せる思考をする癖があるおれは、
雪だるま式にそれを巨大化させ、増殖させるのであるが、
それで、何かいいことがあったかと言へば、
おれが崩壊しただけたで、
何らいいことはなかったとも言へるが、
しかし、絶望の日日といふものは、
愛すべき日日でもある。
さあ、飛び出さう、
世界はおれの絶望なんてお構ひなしに存在するものだ。
世界に脱臼する
操り人形の糸が切れたかのやうに
私の四肢はだらりと脱臼したやうなのです。
それは世界に対しての私の対し方に問題があったとしかいいやうがないもので、
此の世界を認識しようなどといふ暴挙を何故私が思ひ付いたのか
後悔先に立たずなのです。
そもそも世界認識などと言ふ譫妄に陥ったその動機が不純だったのかも知れません。
世界の謎に挑んだ挙げ句、
私の四肢はそれに堪へきれずに脱臼してしまったのです。
世界認識などと言ふ大それたことがそもそも私の手に負へぬことで、
そのずしりとした重みに私の四肢は堪へきれなかったのです。
ぶら~ん、と揺れるだけの腕と、がくり、と崩れ落ちた脚のその状態を見て、
やうやっと私は事の重大さに気が付いたのです。
土台私に世界を担ふことなど不可能で、
その巨大で重厚、且つ、多層な世界を独りで担ふ実存の襤褸切れのやうな結末は
無理があったのです。
だからといって脱構築は、実存からの遁走でしかなく、
一度神を殺したものの眷属たる人類は、
神なき世界を仮令四肢が脱臼しようが世界を担ふ覚悟がなければならなかったのです。
それをどこでどう勘違ひしたのか、
人類は世界を改変し始め、
人類は一見合理的に見える、
とっても理不尽な見識で世界を改変してしまったのです。
人間は結局世界の認識に失敗してゐるが故に
人類の合理は理不尽でしかなく、
それはどこまで突き詰めても自然には敵はなかったのです。
嗚呼、可哀相な人類。
真綿で自分の首を絞めてゐただけのその世界改変と言ふ不合理な行為は
弥縫に弥縫を重ねて人類が積み上げてきた智慧の綻びを縫ひ合わせてゐたのですが、
何とも中途半端な世界認識が足を引っ張り、
弥縫の仕方を間違へると言ふ致命的な失敗を為してしまったのです。
弥縫すればする程に歪な世界が現出する悪循環は、
もう止めやうがないのです。
後は、自然の治癒力に縋るしかない人類は、
今や誰もがお手上げ状態なのです。
それでも科学が人類の世界認識に存在するを止揚するなどといふ余りにも楽観的な希望的観測を抱く現存在は何時の世にも存在し、
智の結晶には違ひない科学に縋る現存在の哀れなる姿は、
やはり四肢が脱臼したままで、
此の世界をもう担ふことが不可能なのです。
哀しい哉、人類は最早自然に対して手も足も出ない羸弱な存在でしかないことを自覚するべきときなのです。
科学がAntinomyを止揚するなどと言ふ馬鹿げた夢はもう捨て去るべきときなのです。
朦朧
黄泉の国の使者ではあるまいし、
高が睡魔に襲はれたくらゐで、
何も恐れる必要はないのであるが、
しかし、朦朧とする意識の中に観念の化け物でも掲げてみようかと
これで此の世からおさらばするかのやうに
《念》を呼び起こすその様は、
何とも見窄らしくもあり歯痒いのである。
埴谷雄高が文学的な実験で行った夢魔の手に落ちる寸前に何か観念を掲げて
夢と地続きにその観念が夢の中でも保たれると言ふ前時代的な話は、
この現代では既に何の効力を失ってゐて
夢に何かを象徴させるには夢が不憫な程にその神通力を失ってしまひ
現代で先づ最初に没落したのは夢に違ひないのであるが、
それでも「無意識」を信ずる輩は今も夢に何かしらの象徴を見ようと躍起になってゐるけれども、
夢にとってそれはいい迷惑である。
然し乍ら、睡魔の手に落ち取ると言ふ事は尚も黄泉の国との親和性が保たれてゐて、
眠りは死と地続きなものとして今もその効力は失ってゐないのであるが、
さて、この朦朧とする意識の中で観念を掲げたところで、
それは夢では断絶してしまひ、
埴谷雄高のやうには「夢」の話としては語るに落ちるのであるが、
それでも観念を掲げるのは朦朧とする意識に何とか抗ひたい思ひ故のことである。
朦朧とする意識に観念といふ核を投げ込めば、
雪の結晶の如くにその核に観念が様に取付き
観念が自己増殖するのではあるまひかとの希望的観測でのことでしかないのであるが、
しかし、観念の結晶を見てみたいおれは
敢へて朦朧とする意識の中に観念を投げ込むことにしたのである。
然し乍ら、それは結局失敗に終はるのは火を見るよりも明らかで、
見事に朦朧とする意識の中で掲げた観念と無関係な夢を見たおれは
多分、夢を見ながら苦笑してゐた筈なのである。
――それ見たことか。
睡魔に襲はれ朦朧とする意識の中に観念をいくら投げ込んだところで、
それは核とはならずに雲散霧消して、
夢では過去から未来までの時間の振り幅の中を自在に行き来する現在の《現実》の異形が
奇妙に拗くれて現はれるのみなのである。
そして、おれは夢見の最中では夢を全肯定するしか能のない馬鹿者に成り下がるのみで、
ただ、ランボーの言ふところの見者にでもなったかのやうに唯々、夢の成り行きを凝視し、
また、夢の理不尽な仕打ちに何の因果か巻き込まれて七転八倒するのであるが、
だからといって夢におれの存在の証左の象徴を託すのは余りにも安易であるに過ぎない。
朦朧とする意識はやがて微睡みの中に没入するが、
そこではおれはおれを絶えず追ひ回し、
それ故に夢の理不尽な仕打ちに自ら進んで巻き込まれ行く馬鹿をやるのである。
夢とは前言の通り、過去から未来までの時間の振幅の揺れ幅の中を自在に行き交ふ奇妙な現実の異形であり、
夢をしておれは未来の模擬実験をしてゐるとも言へるのであるが、
或ひは夢は森羅万象の夢の母集合が厳然と存在し、
おれはその夢の母集合に参加してゐるだけなのかも知れぬのである。
つまり、おれの見る夢は誰かもまた、同じ夢の世界を見てゐて、
おれは其処に参加してゐるだけなのかも知れぬのである。
ふん、そもそも夢魔が怪しいのである。
多分、夢魔は黄泉の国に連れ行くものの眷属に違ひない筈であるが、