乖離する吾
時間はゆっくりと流れるが、
確実に死に行くものの生を削り取る。
時間こそ残酷なものなのだが、
醜態を見せようとも
死に行くものはその時間から零れ落ち、
残されたものの記憶の中で生きるなんて陳腐な言い方はせず、
死に行くものは念を此の世に残し、
残されたものの五蘊場にはそれに対する共振板があり、
死に行くものの念は堪へずそれを振るはせる。
それでいいのだ。
空には変はらず白い雲が流れ、
時間は残酷にもその流れを止めることなく
ゆっくりと進む。
それでいいのだ。
焦燥する魂
空きっ腹にのむ煙草に全身が弛緩して行く中、
魂だけは吾を渇仰して、また、世界を渇仰して已まないのです。
髪を振り乱し、形振り構はず魂は貪婪に存在を欣求して已まないのです。
そもそも私の存在は魂との大きくずれてゐて悩ましいのです。
これは誰にもあることとは思ひますが、
悲嘆に暮れることの私には私の現実の存在、つまり、魂のにおける私を渇仰して已まないのです。
今日も蒼穹は真っ青に晴れ渡り、
哀しみを一層深いものにするのです。
しかし、太陽は私の魂を一向に照らすことはないのです。
何時も闇の中で内的自由に藻掻いてゐる私の魂は、
所詮は内的自由に我慢がならず、
とはいへ、内的自由によりのみにしか存在の謎の何かが潜んでゐるとしか言へない以上、
闇での表象との戯れに終始する内的自由に渇仰する魂の望みを賭けるしかないのです。
では、魂は一体何を望んでいるのでせう。
それは永劫かも知れません。
それは森羅万象の法かも知れません。
それは世界の精密な認識かも知れません。
それとも魂が心底満足できる世界なのかも知れません。
仮令、それが何であらうとも魂の渇仰は収まることはないのです。
今日も蒼穹は落ちてくることもなく、
ゆったりとしたの梁で支へられ、
その梁は私の肩が支えてゐるのです。
さう思はなければ蒼穹に失礼だと思ふ私は
杞憂といふものを信ずるものなのです。
何故って、私が屹立しなければ、
蒼穹は蒼穹ではあり得ないでせう。
風を集めても魂は飛翔できないのです。
想像することではこの魂の渇仰はもう満足できないのです。
何かを創造する事でしかもう私の魂は満足できないのです。
考へが甘い事は解ってゐますが、
闇の中の内的自由で、表象と戯れる時間はもう終わったのです。
寒風吹き荒ぶ真冬の真っ青な蒼穹を見上げ、
あの蒼穹を握り潰すことが私の魂を満足させる術なのかも知れません。
渇仰する魂は、しかし、上を見上げずに足下を見下ろすのです。
或る冬の日に
手がむ中、
私は目的もなく、
或る冬の日の夜更けに徘徊するのです。
哀しい女が流した涙は、
凍てつく寒風を起こします。
落ち葉もすっかり落ち尽くした裸の木が、
それを欲してゐるからなのです。
幾時代が過ぎまして、
木のみが生き残りました。
哀しい女は、
幾人も死んでしまひましたが、
何時の時代も哀しい涙を流すのです。
それを受け止められる男は何時の時代も存在せずに、
哀しい女の涙は寒風吹き荒ぶ中に屹立する木々のみが受け止めるのです。
さうして木々は天へ向かって伸び続け、
死んだ女たちの思ひを受け止めようとするのです。
幾時代が過ぎまして、
木のみが生き残りました。
さうして男たちは無知蒙昧に女を哀しませるのです。
霜柱が立つ中をざくりざくりそれを踏みしめながら歩いてゐると、
木々が語りかけるのです。
――あなたは女の哀しみが受け止められますか。
私はこれまで、女の哀しみを出来得る限り受け止めましたが、
木々の包容力に比べれば、
私の包容力など取るに足らぬものでしかありません。
それ程に女の哀しみは深いのです。
それに比べて男の哀しみなんてお里が知れて浅薄なのです。
それでも男は毎日懊悩してゐます。
それを受け止めるのは女なのでせうか。
男は己の懊悩を己で受け止めようとするものなのです。
さすれば、男の懊悩は底無しなのです。
それがどうしても解らぬ女は、
それだけ哀しみが深いのです。
男の懊悩の逼迫した様を
女は、
――何て子供じみた!
と、半ばあきれ顔で、男を軽蔑するものなのですが、
それだけ男の懊悩は底無しで、女の哀しみは深くなってしまうのです。
男と女が解り合へる時は永劫に訪れることはないと思はれますが、
しかし、男と女はそれでも抱擁するものなのです。
その時の悦楽に男の懊悩も女の哀しみも敵はないのです。
しかし、さうすることで尚更男の懊悩は深くなり、
女の哀しみも深くなるのです。
幾時代が過ぎまして、
男と女が生滅して行きました。
さうして、男の懊悩は深く深くなり、
女の哀しみも深く深くなりました。
それを受け止めるのは残された木のみなのです。
哀しい女が流した涙は、
そして、懊悩する男が呻いた呻き声は、
凍てつく寒風を引き起こすのです。
さうして万人が凍える冬があるのです。
幽玄なる重み
20世紀初頭に自身の患者の死の直前の体重と死後の体重を量った
ボストンの医師、ダンカン・マクドゥーガルといふ先達がゐることに思ひを馳せ、
確かに其処には体重の差異が認められたやうだが、
それが即ち、「心」若しくは「意識」の重さかと言へば、
それは否と言ふ輩が多いに違ひない筈だ。
しかし、本当にさうなのか問ふて見れば、
誰もが口を濁すに違ひない。
生のはそもそも意識に還元できるものかも知れないが、
意識を全て脳に還元してしまふ風潮には馴染めぬ己がゐるのも確かなのだ。
死は幽玄なるものである。
俺は、死しても尚意識は、または魂はあると信ずるので、
生と死の体重の差異にはさほど興味を抱かぬが、
然し乍ら、生死を分ける差異は厳然と存在する。
だから尚更に死には幽玄なる重さがあるのだ。
瞼を閉ぢると死したものたちが表象となって再現前するが、
その表象に重さがあるに違ひないと思ふおれは、
死して尚おれに念を送るその死者たちに対して畏怖を抱きつつも、
おれは、それに対して快哉を上げるのだ。
此の世は死者で犇めき合ってゐなければ、
ちっとも面白くなく、
死から零れ落ちてしまったものが生者なのだ。
故に生者はやがては元の木阿弥たる死へと還って行くのであるが、
物質の重さは死の重さに等しいに違ひない。
つまり、重力波は死の脈動に違ひなく
ヰリアム・ブレイクの銅版画にあるやうに
聖霊たちが渦巻く時空の様相が此の世の実相なのだ。
死から零れ落ちてしまった生者は、
それ故に懊悩し、生を踏み迷ふのを常としてゐるのだ。
それは死の淵を、つまり、生の淵を歩いてゐるからに外ならず、
生者を秩序と看做すならば、死者は渾沌の謂である。
そのとき時空は壊れやすい秩序、つまり、渾沌の淵にあり、
未来永劫、現在の時空が永続する筈もない。
此の世に物理的なる変化が起きたときに
ドストエフスキイが言ふやうに人神が出現するのかどうかは別としても、
死の幽玄さには変はりがない。
重さは死の現はれの典型なのだ。
つまり、重さがあると言ふことは死を背負ってゐると言ふことなのだ。
骸の重さが死の重さであり、
それ故に生の重さは高が知れてゐるのだ。
惚れる
その存在を全的に受け容れたいと言ふ欲求に駆られ、