乖離する吾
端的に言へば、此の世が太極ならば、つまり、渦が此の世に存在する限り、此の世は秩序の縁に、つまり、渾沌の縁にある。云云云云。
没落の果てに
嘗ては没落しても這ひ上がる道は狭いながらも残されてゐて、
戦後のこの極東の島国はそれ故に這ひ上がれたのですが、
現在は、最早その道は閉ざされてしまひました。
一度没落したならば、それはどん底へとまっしぐらで、
上を見上げても最早光明は全く見えず、無限につながる漆黒の闇の中を彷徨ふばかりなのです。
一%の大富豪と九十九%の貧民窟の住人へと分裂してしまった此の世です。
最早九十九%の貧民窟の住人に這ひ上がる術は残されてゐないのです。
それでも貧民窟に生きる現存在に存在する価値がないと言ふのは早計で、
貧民窟の住人は一%の大富豪の搾取のために存在する事が許されてゐるのです。
先づ、それを認めなければ、貧民窟の住人は何が吾を貧民窟へと追ひやったのか不明なのです。
此の世は一%の大富豪と九十九%の貧民窟の住人の登場で、秩序は直ぐにでも敗れ、渾沌へとまっしぐらなのです。
ガラガラポンが起きるときが近付いてゐます。
再び、革命の世が訪れることでせう。
なけなしの金を搾取される九十九%の貧民窟の住人たちは、既に瞋恚に吾を失ひ、
何時一%の大富豪にその矛先を向けるのかは時間の問題です。
ドストエフスキイの『悪霊』の五人組のシガリョフの悪夢の社会構造が現在、実現してしまゐました。
共産主義も資本主義も失敗に終はったのです。
そして、現はれたのが大富豪と貧民窟の住人たちとの断裂です。
成り上がりといふ夢は終はったのです。
その断裂の裂け目の底はとんでもなく深く、また、現存在が跨ぎ果せるには幅を余りに大きくなってしまいました。
しかし、一%の大富豪もその顚落は凄まじく早く、何時顚落するのか不安で仕方がありません。
そんな世の中、不安が蔽はずして何が蔽ふと言ふのでせう。
この不安の世、原理主義が蔓延るのは当然で、狂信者が増殖するのは自然の理なのです。
さうして、最後は、憤懣に駆られた貧民窟の住人による革命が起きるのも必然です。
それで富が分配されることは、しかし、ないでせう。
それは渾沌の世の始まりに過ぎないのです。
それに堪へ得た現存在のみ生き残るのです。
選別の始まりです。
しぶとく生き残った狡賢い現存在のみ生き残り、その子孫が繁栄するのです。
欠伸する影法師
無線のが強烈な空っ風でくう~んと撓み、
その撓みにおれは凭れる資格はあるのかと問ふてみるが、
冬の羸弱な陽射しに欠伸する影法師は、
陽だまりでうつらうつらとうたた寝したくてしやうがなく、
Antennaの撓みの影に凭れたくて仕方がないのだ。
Antenna上空の垂直に視点を移すと冬の澄明な蒼穹は柔らかに撓み、
強烈な空っ風をまともに受け止め、
上空ではとぐろを巻いてゐるであらう疾風の悶絶の様子が
幽かな天籟によって聞こえてくる。
そんな緊迫など知ってか知らずか、
相変はらず影法師は大きな欠伸をして
心地よい微睡みの中へと埋没したく、
Antennaの揺れる影にも眠気を覚えるのか、
影法師は今にも崩れ落ちさう。
やはり、疾風怒濤の天空のことなど眼中にないのか、
余りに気が弛緩した影法師は、
然し乍ら、おれの現し身なのかと問ふてはみるが
羸弱な冬の陽射しは柔らかく皮膚に当たり、
仄かに上気したおれもまた、然し乍ら、眠くてしやうがないのか
寒風が頬を切り裂く如くに吹き荒ぶ中、
陽だまりに蹲り、大欠伸する影法師に嗤はれるのであった。
嘗ての如くに蒼穹を肩で背負ふ覚悟があったおれではあるが、
こんなにも柔らかな陽射しの下ではそれもなし崩しに砕け散り、
柔和な陽射しに感化されてぼんやりと影法師とにらめっこをする。
さうして何時も嗤ひ出すのはおれの方で、
それにも飽きた影法師はうとうととし始めて、
何時の間にやら午睡の中へとのめり込む。
こののっぺりとした感触は、真っ青な蒼穹の感触にも似て、
その間職を振り払ふやうにおれは不意に立ち上がる。
ところが、影法師は相変はらず午睡の中で、
夢の世界で影と戯れてゐるのか、
にたりと時折嗤ふのだ。
そのままおれは蒼穹を見上げて
幽かな天籟に耳を欹てては、
天空から堕天したものの眷属といふことに思ひ致しては、
最早揚力を失ったおれに対してぺっと唾を吐くのだ。
影法師は、その時無限の闇の夢に埋没してゐたに違ひない。
趨暗性
何故にかうも惹かれるのでせう。
瞼を閉ぢただけでもう闇の世界の入り口に立てるのです。
闇好き、つまり、趨暗性なる私にはこれ程耽溺出来る「遊び道具」は外にはないのです。
或る時期は無限への憧憬から瞼を閉ぢては闇に耽溺し、
その中で、私は内的自由を存分に味はってゐたのです。
それもこれも闇が何をも受け容れる度量の持ち主で、
例へば頭蓋内の漆黒の闇たる脳と言ふ構造をした五蘊場には
宇宙全体が薄ぼんやりとながらも受け容れることが可能なのです。
闇の中では何ものも伸縮自在で、宇宙全体はぎゅっと収縮して五蘊場に収まり、
然もなくば、素粒子の微少な微少な世界を拡大に拡大を重ねて見える如くにさせるのもお手の物なのです。
これ程に吾が心を満足させるものはなく、また、五蘊場の闇には森羅万象は勿論のこと、
此の世に存在しないものすらをも五蘊場の闇には存在可能なのです。
瞼を閉ぢるだけでこんなにも魂を揺さぶって已まぬ闇と言ふ世界が現前に出現し、
その闇に表象が再現前化して、世界を揺さぶってみることも難なく出来得るこの瞼の存在は、
生物の進化に深く関わってゐる筈で、
瞼の存在は、思索の深化を保証する組織なのです。
うお~んと音にならぬ唸り声を出しながら、五蘊場か瞼裡に明滅するかの者の表象。
あっ、かの者は飛翔し、闇の奥へ奥へと飛び行くのです。
死へ傾く
生と死の均衡が破れたとき、
生者はもう死へとまっしぐらへと突き進む。
これはどうすることも出来ぬことで
絶えず、生と死の均衡の元に生が成り立つ以上、
その均衡が破れれば、死への顚落は必然なのだ。
それでも残された生の時間を充実したものにするのに、
周りのものは変はらぬ日常を過ごすに限る。
それが残されるものの精一杯のなのだ。
涙を流す暇などない。
死に睨まれてしまった愛するものとの別れには
変はらぬ日常を送ることが最高の餞別なのだ。
さう思ふしかないではないか。
愛するものの死への行進に
深く哀しむのは当然なのだが、
それは単に上っ面の哀しみでしかない。
死に行くものに対して
普段と変はらぬ日常こそが正統な哀しみの表し方なのだ。
死への顚落を始めたものは
直ぐに変はらぬ日常は送れなくなり、
死の床に就く。
それでも変はらぬ日常をお互ひに過ごすことで、
死に行くものは安心するのだ。
這いずってでも死の床から出て、
変はらぬ日常を送りたく、
死に行くものはさう望む。
それが自然とといふものだらう。
生と死が睨み合ふ此の世の摂理において
死の睨みが勝ったとき
死に行くものは最期の輝きを放つが、
それが残されるものに対する最期の奉公なのだ。
さう思はずば、堪へられぬではないか。