乖離する吾
気分は少し楽になるのです。
これが実存といふものなのかと、
知ったかぶりをするのでしたが、
死に絶えず追ひ駆けられてゐる私は、
この実存と言ふ言葉に何となく慰みを覚えるのでした。
それでも低気圧に蔽はれた地上に生きる私は、
苦しくて苦しくて、
頭痛に襲はれ、目眩に襲はれ、そして、卒倒するのを常としたゐたのです。
それはなんの前触れもなく突然やって来て
私は不意に卒倒するのです。
目の前は、真っ白になり、ちかちかと星が瞬き始めたかと思ふと、
バタリと卒倒するのです。
この卒倒すると言ふ状態は実存の空隙なのか。
私は、卒倒する時に喜びすら感じるのです。
何故かと申しますと、
それは苦しさから救ってくれるからです。
それが一時のことであらうとも、
卒倒してゐる私は苦悶から解放されるのです。
卒倒してゐる間、私は夢を見てゐるのかもしれません。
しかし、それは過去が走馬燈の如くに脳裡に過ぎり
死に歩一歩近付いた証左なのかも知れません。
卒倒もやはり実存から遁れることは出来ないのです。
これもまた、哀しいことなのです。
それを乗り越えるべく、観念を喰らはうとするのですが、
私の無能では実存を乗り越へるべき観念は今のところ構築できないのであります。
そもそも観念が人を生かせる代物なのかも解らず、
とはいへ、観念が生に先立つものである事は本能的に解ってゐるのです。
世間では思弁的実在論なるものが持て囃されてゐるやうなのですが、
私には、それが不満でしやうがないのです。
メイヤスーでは満足出来ないのです。
私にはカントの物自体といふ感覚が一番しっくりと来るのです。
何故なら、此の世は諸行無常であると言ふ事に物自体と言ふ観念がとてもぴったりと来るのです。
もの全て、つまり、森羅万象、現存在の思ふ通りに操れないと言ふ考へ方が一番しっくりとくるのです。
雪景色は哀しいものです。
卒倒から目覚めた私は、真白き風景を見ては
虚空を恨めしく眺め、
神を呪ふのです。
畸形
さうです。
私は畸形の人間として生れてきました。
だからといって私自身に対して憤懣はないのですが、
事、他者にとっては私の存在は見るも無惨な有り様のやうなのです。
畸形がそんなにをかしいのか、
内心ではくすくすと衆目が嗤ってゐる声が彼方此方から聞こえてくるのです。
然もなくば、
――あら、何と可哀相な。
といふ要らぬ偽善的な同情の声が時折聞こえても来るのです。
畸形がそんなにをかしいのか私には解りません。
しかし、常人と違ふことはいくら鈍感な私でも解りますが、
だからといって畸形を嗤ひものにする権利は誰も持ってゐない筈です。
私は独り奇妙なことに「捻れ」てゐたのかも知れません。
心が捻れてゐたのです。
しかし、捻れてゐたのは私の方だったのでせうか。
もしかしたならば、此の世が捻れてゐたのかも知れないのです。
でなければ、畸形の私を見て他者がくすくすと嗤ふ筈はないぢゃありませんか。
私は鏡だったのかも知れません。
他者に自分の内奥を突き付ける鏡です。
つまりは他者、或ひは衆目が捻れてゐたのです。
その捻くれてしまった衆目は、
畸形の私を見ると内奥が疼くに違ひないのです。
でなければ、私を見て内心でくすくすと嗤ふ事など出来る筈がありません。
私の存在は他者にとっては不快な思ひを呼び起こす存在だったのかも知れません。
しかし、それは私にはどうすることも出来ないのです。
畸形に生れてしまった私にはそれを変へることは出来ないのです。
先験的に畸形に生まれ落ちた私には、
後天的にそれをどうすることも出来やしないのです。
さて、私は、しかし、世間に対してはもうどうでも良いのです。
もう私が衆目にどう見られていやうが構ひやしないのです。
さう思はなければ、私は世間を恨んでしまふ事になりやしないか不安なのです。
畸形な私でも生きたいのです。
出来れば心地よく生きたいのです。
これは無謀な望みなのでせうか。
私の存在が他者を不快にさせるとしても、
私はそれでも世間の中で生きて行きたいのです。
施設に隔離される事は望んでゐません。
しかし、私の存在が不快な人たちは、
私を隔離することを望んでゐます。
どうして畸形の私の自由を奪う権利が誰にあると言ふのでせうか。
私は出来得れば、畸形と言ふ存在とはいへ、自由に生きたいのです。
これは高望みでせうか。
哀しい哉、私は癩病で施設へと赴く北条民雄の心境なのです。
其処には多分、不思議なCommunityがあり、
隔離された中での自由といふ絶えず監視された中での「自由」はあるでせうが、
私の存在は世間から湮滅されるのです。
それが癪なのです。
独断的なる五蘊場試論その二
命題:此の世は秩序の縁に、つまり、渾沌の縁にある。
証明:例へば思考する時に、その思考は渾沌錯綜するが、しかし、或る二択へと収束する。そして、その二択はどちらも秩序ある埒内のものである。その後、其処で現存在は二択の内一つを選択し、それを足場に思考を更に推し進める宿命にある。つまり、泳ぐと死んでしまう鮪の如く考へること已められぬ現存在は思考を続け、再び、思考は渾沌へと埋没するが、再び思考の行き着く先は二択へと収束する。云云云云。
また、脳細胞をみると軸索の伸びる方向は五蘊場内での秩序と渾沌の境を選んで伸びるに違ひない。さうでなければ、現存在は自由を獲得することは不可能、且つ、理性的であることもまた不可能である。
それは、内的自由を取り上げてみると、内的自由の様相は渾沌そのものを保証せずば、それは内的自由とは言へず、といふよりも、内的自由は渾沌そのものでなければ、それは内的自由とは言へず、渾沌とした「自由」、つまり、悟性が崩壊した思考なり表象なりが脳裡、または、瞼裡に再現前せずば、創造、または発想は保証され得ぬ。
故に脳細胞の軸索は五蘊場で秩序と渾沌の境を伸びるに違ひない。内的自由が渾沌に脚を踏み入れぬとするならば、つまり、思考は全て悟性に準ずるとするといふことで、それは思はぬ、つまり、とんでもない発想が生れる芽を完全に摘んでゐる。
または、思弁的存在論を思考することも不可能で、内的自由の保障は渾沌なくしてはあり得ぬのである。
故に五蘊場が此の世の縮図の典型の一つとすれば、此の世は秩序の縁に、つまり、渾沌の縁にある。
更に五蘊場が此の世の縮図の典型の一つとする証左は、これは逃げ口上かも知れぬが、現存在の存在様式に先験的に組み込まれてゐて、世界認識し得る可能性を秘めてゐる故にのことである。況して世界認識出来ぬ五蘊場ならば、それは現存在の即死を意味し、外部世界に適応できぬ事で現存在は終焉する。
現存在に自由があるとするならば、それは自律的に現存在は存在すると言ふ事であり、それは此の世の秩序に大抵は則ってゐるが、一時、魔が射すやうに現存在は錯乱を起こし、さうであっても此の世は現存在を受け容れ、生かす。つまり、これは世界もまた、秩序と渾沌の境に存在する構造をしてゐる証左に違ひなく、此の世は秩序の縁にあり、つまり、渾沌の縁にある。云云云云。
しかし、この命題はまだ、語りたらぬ。