狂犬病をうつされたけど私は大丈夫
意見を求められた私はうっかりインド人に賛意を表してしまったが、それは社会にチャレンジするということではないか? この甘美でゆるい生活を味わってしまった以上、それは無理だ。私は再び空想の世界に逃げ込んだ。
インドに雨期がやってきた。毎日午後になるとスコールが降って時間の流れがいつもよりゆっくりになる。怠惰な自分の生活が祝福されているような気がした。そして突然スコールが止み、清々しい大気の中にオレンジ色の太陽光線が差し込む瞬間が好きだ。
ある日の夕方、果物屋の軒先に灰色の小さな物体があった。牛糞かと思ったら無垢の瞳が二つキラキラと輝いていた。それが子猫のミーコだった。思ってもいなかった幸せが自分に訪れた。ミーコを拾った私はミーコに命を与えられた。
自分を肯定し、褒めてくれるのはミーコ。『人生の目的』って実は簡単だったのだ。毎朝ティッシュペーパーで目ヤニを取り除き、ミルクを与えた。ミーコは元気になり、みるみる毛並みがよくなった。餌を与えると喜んで遊んでくれた。私は私の『十猫図』を描いてやる。
私は身元引受人の当てなんて無い、と言ったので逃亡の恐れがあるとみなされ、留置場に入れられた。書類送検されたあと、検察から派遣された精神科医の問診が始まった。それは一週間ごとに数回行われる予定とのことであった。
目の前に深緑色のTシャツを着た精神科医がにこやかに座っていた。Tシャツには「それはそれとして」とくずした平仮名で書かれていた。
「空港で傷害事件を起こしたのはゴーストに命令されたからだ、と言ったね。統合失調症を疑ったが、その所見はなかった。君の言うゴーストを解説してあげよう。それは仮病だ。そうでしょ?」
「君の経歴も調べた。君は現実を受け入れて適応する努力をせず、自分のアタマの中の世界を現実と取り違えるという間違った方向性の努力をして育った。君は精神病ではないがメタ認知能力が著しく低下していて統合失調症の一歩手前だ。だから普通の人とは違う思考をするくせがある。事象の関連をショートカットして変なつなぎ方をしているんだ。一般的な人とは違うヘリクツはそこから出ている。でも君は知能指数が高すぎて統合失調症になれなかったんだ。君は恵まれた能力がある。社会の存在を素直に受け入れて幸せになるんだ。今からでも遅くはない。メタ認知トレーニングのオンライン講座を紹介するから受講することをお勧めする。そうすれば君は絶対に幸せになれるよ。大学を卒業して就職して、やりがいのある高収入の職業に就くことも無理じゃない。とっとと今までの嫌なことを忘れて社会とうまく折り合いをつけようよ。君ならできる。プロになって成果を出せば、他人と違っていても気にされなくなるんだ。プロって自分で自分の居場所を作った人を言うんだ。私も学校は嫌いだったし、友達が居なくていじめられたけど今は医者として働くのが好きだよ。社会って本当は怖くないんだ。やってみようよ」
彼は優しく語りかけてきた。
社会、それは猫ではなくて人間の世界。いつか来た道。
やっぱり、怖い・・・・・・
母親から手紙が来た。
「おじさんのお葬式が終わりました。あなたの帰国の目的はとうとう果たせませんでしたね。おじさんはあなたのことを死ぬまで気にかけていました。あなたはたくさんの人に愛されているのですよ。あなたが生まれた時、私の世界は変わりました。私は家庭内暴力の中で育ち、故郷を捨てて貧困と苦学を乗り越えて今の大学教授という社会的地位を得ました。それは社会の中での成功でした。社会とは男が支配する世界です。そしてあなたの誕生は私にとって女社会でも成功者として認められる栄光の冠でした。それ以後、私の人生は、男からも女からも羨望される究極のばら色になったのです。だからあなたも同じばら色の人生を送らなくてはならないと強く思いました。私は心からあなたを愛しています。どうしてわかってくれないのですか。そして今のあなたは何を目標にして生きているのか私には理解できません。どうしてあなたは幸せに背を向けるのですか? どうしてまともなことを考えることができないのですか? 社会というものは厳しく、情け容赦がありません。それに立ち向かわないでいったいどうするというのですか? 現実を見てください。勇気を出して戻ってきてください。お父さんは不祥事に巻き込まれて働く意欲を無くし、お酒を飲んでいます。お父さんは家族を捨て、お酒を選びました。今の私は社会的には成功者とみなされていてもその内面は絶対的に不幸です。私を助けてください。私はあなたの母です。だから私はいつまでもあなたを待ち続けます。やり直すと約束してくれるなら身元引受人になります」
いが栗頭の国選弁護人がやってきて、裁判の対応の話し合いが始まった。
「あなたの罪状は傷害罪、狂犬病予防法違反、家畜伝染病予防法違反及び関税法違反ですが、初犯ですから反省を示すことで執行猶予がつく可能性も無くはありません。被害者に対して心を込めた謝罪文を書きましょう。動物検疫所に反省文を提出し、検疫中の猫についても管理費用を払って社会的な責任を果たしましょう。裁判官の心象もよくなりますよ。それから言いにくいのですが、もし実刑判決になったら服役は半年以上になる可能性があり、猫の検疫は百八十日なので服役中に終わることもあります。検疫終了後の猫は所有権を放棄するか、ご両親に引き取ってもらうようにしてください。それからご両親には出所後の身元引受人になってもらいましょう」
「全部お断りします。私は悪いことはしていません」
「傷害罪は十五年以下の懲役となっていて厳しい罰則があります。そもそも法律というものはですね・・・・・・」
「私はミーコ憲法に基づき無罪を主張します」
「なんですかそれは?」
蛍光灯の光がまぶしい。しかも手が震える。緊張のせいだろうか?
裁判が始まった。検察は狂犬病の恐ろしさと私の身勝手さを強調していた。
「狂犬病は人間に感染した場合、あらゆる疾病のうちもっとも残酷な症状をもって死に至るという恐ろしい伝染病です。また発症したら治療法はありません。犬や猫などの哺乳類に長期間にわたって潜伏感染している可能性があります。特にインドでは年に万単位の人々が感染して死亡しています。被告人はインドからその病気に感染している可能性のある動物の密輸を試みて狂犬病予防法、家畜伝染病予防法及び、関税法を侵しました。さらには身勝手な理由で農林水産省動物検疫所の家畜防疫官に重傷を負わせました。しかも被告人は反省の意を現時点では示していません。これらの重大な反社会的な行為については影響が大きいため、検察として八年の実刑判決を求めます」
国選弁護士は事実関係について反論せず、すべての指摘事項を認めた。ただし、被告人はペットに精神的依存をしており、やむにやまれる衝動により、これらの犯罪に至ったという点からの情状酌量を求めた。アメリカでは、法律に基づき精神的ペット依存者の人権に配慮した規定があるのに対して、日本では航空会社、交通機関及び衛生行政において、そういった人権への配慮の規定が全く無いという社会的背景についても付け加えた。
作品名:狂犬病をうつされたけど私は大丈夫 作家名:花序C夢