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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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夢幻空花なる思索の螺旋階段

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肉筆原稿が嘗ては活字、今はComputer入力の写植に変貌してしまつたが、それでも肉筆で今でも原稿用紙と格闘してゐる作家の文は迫力が違ふのである。これは私だけのことかもしれないが文芸誌などで何某かの作家の作品の一文を読めばその作家が原稿用紙に肉筆で書いたかComputer入力かがたちどころに解つてしまふのである。私にとつてComputer入力の作家の作品はそれだけで既に読むに値しない愚作である。今でも肉筆で原稿用紙に書いてゐる、例へば本人には申し訳ないが、私は嫌ひである大江健三郎の作品を文芸誌で見つけると嫌ひにも拘はらずその作品の一文を読んでしまふと最後まで読んでしまはないと気が済まなくなるのである。写植になつても肉筆で書いたといふ《個時空》若しくは作家の《言霊》が私の魂を鷲摑みにして作品を最後まで読ませてしまふのである。
…………
…………
――何故、現代人はComputer入力で文を認める、つまり己を『のつぺらぼう』にしたがるのかね……
――へつ、己のことを自然を「超えた」若しくは神を「超えた」存在だと錯覚したいだけのことさ、けつ。

位置

高田渡も歌つてゐる黒田三郎の詩『夕暮れ』の第一連から

夕暮れの町で
ボクは見る
自分の場所から はみだしてしまつた
多くのひとびとを

は何とも私の胸奥に響く一節である。特に

自分の場所から はみだしてしまつた
多くのひとびとを

の一節は見事である。
ところが
――自分の場所とは一体何処だ?  
といふ愚問を発する私の内部の声がその呟きを已めないのである。
今ゐる自分の場所は日本国内では、地球上では、太陽系内では、天の川銀河内では、更に何億年か何十憶年か、もしくは何百億年か後に天の川銀河と衝突すると予測されてゐるアンドロメダ銀河との関係性から全て自分の場所、もしくは自分の位置はそれぞれの相対関係から言葉で指定できるが、さて、宇宙に仮に中心があるとして我々が棲息する天の川銀河は宇宙全体の何処に位置するのかとなると最早言葉では表現出来ずお手上げ状態である。
現代物理学ではこの宇宙は「閉ぢて」ゐると考へられてゐるのでこの宇宙の中心は多分何処かにある筈に違ひないと考へられなくもないが、しかし、宇宙全体の形状すら未だ不確かな状態ではこの宇宙に中心があるのかどうか不明である。仮令この宇宙に中心があつたとして、さて、我々が棲息する天の川銀河はこの宇宙の何処に位置するのであらうか……。
さて、以前にも宇宙の涯についての妄想を書き連ねたが、仮にこの宇宙といふ世界樹が林檎の木で出来てゐてその林檎の実一つ一つが一つの宇宙を象徴してゐる「林檎宇宙」であるならばこの宇宙の存在物は全て「林檎宇宙」の表皮に存在するといふやうに考へられなくもないのでこの宇宙の存在物全ては宇宙の周縁に存在することになる、つまりこの宇宙の存在物全ては宇宙の涯と接してゐるといふことになる。大袈裟に言へば私の位置は宇宙外と接した何処かといふことになる。
――吾の隣は既に宇宙外……、はつはつ。
そこでまた以前の妄想から宇宙の涯が鏡――古代の人々は矢張り素晴らしい。鏡を神器と看做してゐたのだから――であるならば、私が鏡を見る行為は宇宙の涯を見てゐる擬似行為なのかもしれないのだ。鏡を見て自己認識する人間といふ生き物は、もしかすると宇宙の涯との相対的な関係性から自己の位置を認識したいのかもしれないのである。
――さて、吾は何処に存在するのか……
ここで石原吉郎の代表作の一つであり傑作の一つでもある『位置』といふ詩のその凄みが露になる。
――吾は吾の『位置』を言葉で表現し得るのか……
石原吉郎の第一詩集である『サンチよ・パンサの帰郷』(思潮社、1963年)の最初の詩は、『位置』である。

    位 置

   しずかな肩には
   声だけがならぶのでない
   声よりも近く
   敵がならぶのだ
   勇敢な男たちが目指す位置は
   その右でも おそらく
   そのひだりでもない
   無防備の空がついに撓(たわ)み
   正午の弓となる位置で
   君は呼吸し
   かつ挨拶せよ
   君の位置からの それが
   最もすぐれた姿勢である
         (『石原吉郎全集Ⅰ』花神社、1979年、5ページ)


魔人「多頭体一耳目」の悲哀  


印刷技術を始め様々な科学技術を応用した発明がなければ「知識」は未だに特権階級の独占状態にあつた筈であるが、幸か不幸か印刷技術の発展で「知識」は人類共有のものへと世俗化したのである。しかし、現代は人間を魔人「多頭体一耳目」へと変態させてしまつたのである。
印刷技術の発達のお蔭で書物が誰でも手にすることが出来るものへと、画家や写真家のお蔭で或る絵画や写真の情景が見る人誰もが共有出来るものへと、Recordの発明のお蔭でで誰もが音楽を共有出来るものへと、そして、映画や団欒のTelevisionのお蔭で誰もが同じ映像を共有出来る時代になつたが、さて、ここからが問題である。個室で独りTelevisionやVideo等を見る段階になると人間は魔人「多頭体一耳目」に変態するのである。
――奴とこ奴の記憶すら交換可能な時代の到来か……。
つまり、現在「個人」と呼ぶものは既に頭蓋内の記憶すら他者と交換可能な、言ひ換えると仮に人類が個室で全員同じ画像を画像から同じ《距離》で見てゐるとするとすべての人間の頭蓋内の記憶が同じとなつてしまひ将来生まれて来るであらう人類の為には極端なことを言へばたつた独り生き残つていれば、否、誰も生き残らなくとも映像さへ残れば人類の記憶が残り良いのである。
――こいつとあいつは頭蓋内の記憶すら交換可能な、つまり、こいつが居ればあいつは無用といふあいつの悲哀……。
さて、そろそろ魔人「多頭体一耳目」の正体が解つてきたと思ふが、つまり、魔人「多頭体一耳目」は個室で独りTelevisionやVideo等を見てゐる人間のことなのである。
――俺の存在とは誰かと交換可能な……つまり……俺が此の世に存在する意義は全く無い……。
映画館や団欒等、他者と一緒に同じ映像を見てゐるならばは傍に「超越者」たる「他者」が厳然と存在するので魔人「多頭体一耳目」は出現しない。
ここで魔人「多頭体一耳目」を戯画風に描くと一対の耳目を蝸牛の目のやうに一対の耳目をTelevisionやVideo等が映す映像の場所にによきつと伸ばし、その映像を見てゐる人数分、一対の耳目から無数に枝分かれした管状の器官で頭と肉体が繋がつてゐる奇怪な生物が描き出されるのであるが、オタクには失礼かも知れないがオタクこそ魔人「多頭体一耳目」の典型なのである。
さうなると主体が生き延びるには「感性」しかないのであるが、「感性」といつても如何せん頭蓋内の記憶すら同じなので、哀しい哉、「感性」もまた「同じ」やうなものばかりしか育めないのである。
――主体とはこの時代幻想に過ぎないのか……。
人間を魔人「多頭体一耳目」に変態させたくなければ同じ映像を見るにしても必ず他者と一緒に見なければそいつは既に魔人「多頭体一耳目」に変態してしまつてゐる。