夢幻空花なる思索の螺旋階段
埴谷雄高は何も書かれてゐない原稿用紙を『のつぺらぼう』と表現し、その『のつぺらぼう』を埴谷雄高独自の宇宙論へまで推し進めたが、『のつぺらぼう』は正に虚体論に直結してゐる。
何も書かれてゐない原稿用紙の『のつぺらぼう』の状態は私がいふ《虚の波体》の状態のことである。じつと何も書かれてゐない原稿用紙を前にして書くべきものの姿が全く表象出来ない状態が所謂『虚の波体』の状態である。すると頭蓋内の暗黒の中に何やら《存在》してゐるやうな気配が感じられ始めるのだ。これが私のいふ《陰体》である。更に集中し頭蓋内の『それ』へSearchlightを当てるとその《陰体》はその姿を表象する。これが或る言葉が出現する瞬間である。
さて、日本語は漢字の読みが幾つもあつて、つまり量子力学的に『波が重なり合つてゐる』状態を実践してゐて面白い。書き手の頭蓋内で言葉の量子力学的にいふ『状態』が決定し確定したならば書き手は眼前の原稿用紙に先づ点や画で構成された一文字を記す。これが言葉の『量子化』である。そして、最初に記された言葉の『状態』を更に固着化するために次の言葉が書き連ねられるのである。これは正に現代理論物理学の最先端の実践に外ならない。特に漢字の読みが幾つもある日本語はその更に先端を実践してゐると思はれる。
閑話休題。
さて、本題に戻ろう。浅川マキもう故人である。そして私的に数時間ではあるが直接本人と歓談したことがあるのも浅川マキ一人きりである。
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浅川マキは浅川マキにしか表現出来ない独自の音楽世界があつて彼女はそれとの格闘の日々を過ごしてゐるといつても過言ではない。後はInternet等で検索してみれば彼女のことが少しは理解できるかもしれないが、普通の音楽が好きな人には彼女の『異端』の音楽は薦められない。彼女の音楽の核は『詩』である。
次にフォーク歌手の高田渡だが岡林信康や吉田拓郎に代表されるフォークが好きな人には高田渡は「何、これ? 」と言はれるに違ひない独特の味を持つたフォーク歌手である。何といつても山之口獏の詩を高田渡が歌つた楽曲が一番である。高田渡は晩年私の好きな詩人の一人でシベリア抑留を生き延びた石原吉郎の詩を歌ふことに挑戦し始めたが、まだ石原吉郎の詩の言葉の存在感を手なずけられないまま彼の世へ逝つてしまつた。石原吉郎の詩の言葉の重さを手なずけた高田渡の歌が聴きたかつたが返す返すも残念無念である。
最後に江戸アケミであるが、彼は知る人ぞ知る伝説のバンド、JAGATARAのVocalistである。パンク、ファンク、レゲエ、中南米の音楽から、さてこれから、アフリカ音楽へ挑戦せうとしたところで彼の世へ逝つてしまつた。彼の書く歌詞は最高である。全てが江戸アケミの遺言になつてゐるのだ。晩年、精神を病んでしまつた彼のその人間の壊れ行く姿が克明に彼の音楽には記録されてゐるのでこれまた万人には薦められない音楽である。
浅川マキ、高田渡、そして江戸アケミの三人三様の独自の音楽世界は私の栄養剤である。
風紋
川面を弱風が吹き渡ると千変万化する風紋が川面に現はれる……。
風紋といふ文字の姿も「ふうもん」といふ文字の響きも美しい。何がこんなにも私の魂と共鳴を起こして『美』を想起させるのか……
「揺らぎ」……。揺らぎを語り始めると量子論や宇宙論まで語らなければならないので自然の本質の一つとしてここでは一応定義しておく。
風紋は風の揺らぎによつて無常にその姿を変へ波の紋をこの世に映す。
諸行無常とは正に風紋の如しである。
さて、ここで妄想を膨らませると、風紋は時空間の時間を主体にした時空が姿を与へられて此の世に出現する現象ではないかと思ふ。波は周回運動に変換でき、つまり波は或る物が「揺らぐ」螺旋運動をして此の世を駆け抜けたその軌跡ではないのではないだらうか。ここでいふ或る物とは正に『時』である。
確率論的に言へば風に幾ら「揺らぎ」があらうが風紋の最終形は直線の筈である。水はその姿を千変万化に変容させるので兎も角、砂丘の砂が例へば真つ平らであつて例へ「揺らいだ」風でも万遍無く砂丘の砂にその風を数時間か吹き付け続ければ確率論的には直線の風紋が出来る筈であるが自然はそれを許さない。それは何故か――時空が特に時間が「揺らぐ」螺旋運動をしてゐるとしか考えられないからである。
多分、螺旋運動は自然の宿命なのだ。それ故時空は「揺らぐ」のだらう。
――人間もまた螺旋から逃れられない自然物なのだ。さて、例へばRobotだが、それが自然を超へるといふ人間の宿願を果たす人間の夢想であるならばだ。しかし、それが人間の頭蓋内の思索といふまた「揺らぎ」の螺旋運動から出現したものならば、さて、Robotもまた自然でしかない……………。
――さてさて、人類の叡智とやらに告ぐ。……無から何か有を、存在物を……人間よ……創造し給へ。それが出来ない以上、人間よ、自然に隷属し給へ……。それが自然の宿命だからな……、ふつ。
肉筆
文字を手にした人類は何を措いても肉筆が森羅万象を表現するのには一番である。
Pen先の運動と文章の進行とを見れば明らかなことであるが、文を認(したため)めるといふ作業はまた周回運動に変換出来、それが綺麗な螺旋運動になつてゐることに気が付く筈である。
横書きは書き手の頭上に、縦書きは書き手の右側にといふやうに文章の進行方向に対置するものを例へば「神の視点」といふやうに名付けて見るとその「神の視点」の「神」とは『時間の神』、日本で言へば滋賀県大津市にある「天智天皇」を祀る近江神社が「時の神」の神社として有名だが、ギリシア神話で言へば「クロノス」(英語;Chronos、ギリシア語;χρόνος)のことである。一神教、例へばゆダや教ではやハウェ、基督教では基督、回教ではアつラーフ(アつラー)に「時の神」は統べられてしまつてゐるが……。
以上のことから唯一神不在若しくは無信仰の人間の横書きが如何に虚しい作業かは言はずもがなである。
さて、本題の肉筆だが、仏教徒であらうが神道信者であらうが、更に言へば無信仰ならば尚更であるが、日本人ならば先づ縦書きが基本で、文を記すことは言語に「量子」としての画数、「波」としての音たる読みといふ視点からすると量子力学を始めとする現代理論物理学の実践である。ハイデガーのいふ「世界=内=存在」でありたいならば「道具存在」である筆でも万年筆でも鉛筆でも何でもよいが筆記用具を手にして紙に記す行為こそ「世界=内=存在」であり得る。そこでだ、現代理論物理学を実践するならば肉筆に限る。文字を記すときの一点一画を記す行為は「時間」を紙上に封印する行為でもある。それが肉筆であるならば《個時空》を紙上に封印することである。紙上に肉筆で封印された《個時空》は既に此の世に唯一の「顔」を持つてゐて唯一無二の存在物になるのである。
作品名:夢幻空花なる思索の螺旋階段 作家名:積 緋露雪