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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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夢幻空花なる思索の螺旋階段

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「てつ」は柴犬か柴犬の雑種であつたが定かではない。「てつ」は昼間は殆ど寝てゐたが夕刻になると茫洋と何処かの虚空を見上げては何十分もそのまま座り続け、散歩の時間までさうして過ごしてゐた。その姿を見て「てつ」を「哲学者」と名付けたのである。そして散歩から帰つて食事を済ませると再び何処かの虚空を見て何やら考へ事に耽つてゐるとしか思へないやうに一点に座つたまま一時間ばかり動かなかつたのであつた。
それが「てつ」の日常の全てであつた。
「てつ」の散歩も変はつてゐた。「てつ」が吾が家に来て一週間は「てつ」は私が行く方向に従つて散歩の主導権は私が握つてゐたが、一週間もすると吾が家周辺の地図が「てつ」の頭の中に出来上がつてゐて、「てつ」はそれ以降、散歩のCourseを自分で決めて「てつ」が思ひ描いたCourseから外れやうものならその場に座つて頑として動こうとしなかつたのである。仕方なく私は「てつ」に散歩される形になつてしまつたが、「てつ」との散歩は何時も違ふCourseで全く飽きが来なかつたのである。寧ろ「てつ」との散歩は楽しかつたのであつた。
雲水か修行僧のやうに食べ物に禁欲的であつた「てつ」は性欲にも禁欲であつた。発情は勿論してゐた筈だが、雌犬を見ても何の反応もせず、また、私の足にしがみ付いて交尾の擬似行為は一切しなかつたのである。唯一「てつ」の性器が勃起したのは私とじやれ付く時のみであつた。
しかし、「てつ」は自分から私とじやれ付くことは無く、私が無理矢理「てつ」にじやれ付くと「てつ」の性器は勃起して「てつ」は私とじやれ付くことに熱中するのであつた。
「てつ」の遊びはそれが全てであつた。
そんな日常が十七年続いた或る日、私は既に覚悟してゐたが、既に白内障を患つてゐた「てつ」は突然体がふらつき出したのであつた。それでも「てつ」は死の二日前まで散歩に出かけてゐたが、「てつ」の最後の散歩時は「てつ」の体は既に冷たくふらふらと何時もの散歩の半分にも満たなかつたのである。
「てつ」の最期は眠るやうであつた。既に冷たくなつてゐた体を犬小屋の中に横たへ「てつ」は最期に生涯最初で最後の愛撫を私にせがんだのである。目で愛撫をせがんでゐるのが解つた私は「てつ」を撫であげると物の数分も経たぬうちに「てつ」は彼の世へ旅立つて逝つたのであつた。それはそれは物静かで大往生ていふに相応しかつた。。
さて、そこで亡骸となつてしまつた「てつ」の性器が不意に目に飛び込んできたのであるが其処には精液が凝固して出来てゐたのであらう、尿道の出口に白い可憐な小さな花を思はせる花の形をした精液の凝固物が咲いてゐたのであつた。その可憐な白い花を思はせる尿道に咲いた精液の凝固物が「てつ」の満ち足りた生涯を祝福してゐるやうでその白い花は荘厳な荘厳な美しさを発してゐたのであつた……。
「てつ」は今も忘れ難く二匹とゐない、私にとつては特別に偏愛する犬となつてゐて、「てつ」との思ひ出は私の宝物である……。


螺旋

螺旋から思ひ付くものの一つに二重螺旋構造のDNA(デオキシリボ核酸)がある。
そして螺旋は螺旋の真ん中を貫く一本の線を想起させる。螺旋の進行方向が螺旋の真ん中を貫く線の方向を決める。また、螺旋は龍巻を連想させる。螺旋状に渦を巻く気流が異常な破壊力の上昇気流を生み龍巻は地上の存在物を破壊する。DNAもまた自然物ならばこの摂理に従つてゐる筈である。DNAの真ん中を電流かその外の何かが流れてゐる筈である。それが何かは分子生物学者に任せてこちらは勝手な妄想を脹らませて主体といふものの仮象構造といつたものを造形してみよう。
DNAの構造をFractal(フラクタル)に拡大したものが人体だらうといふことは想像に難くない。さうすると主体たる人体は渦構造をしてゐるといふことも想像に難くない。一例として血管構造を見てみると動脈を構成してゐるといふ平行に走る弾性板の間を動脈長軸を巻くように斜走する平滑筋細胞が存在しいるらしいので血流が螺旋と直線運動と多少は関係してゐると看做せなくもないのである。
さて、人体を全体から見てみるとそれが渦構造であつてもおかしくないと思へるのだ。口から肛門まで一本の管が人体を貫いてゐてそこは主体にとつて《外部》である。
ここでカルマン渦の代表格である台風を持ち出してそれと人体の構造を比べると台風の目に相当するのが口から肛門まで貫く一本の管と看做せなくもないのである。そして肉体が台風の積乱雲群となる。
両手を拡げてその場で回転すれば肉体で出来た《固時空》台風の出来上がりである。
さて、台風は台風に接してゐて渦を巻く高気圧によつて動くが、人体は歩行する。多分、自転車、自動車、飛行機などは全て車輪かEngineの羽根の回転運動で進んでゐることから《固時空》で円運動をしてゐるだらう時間を振り子運動に転換して人間は自律的に歩行してゐる筈である。《固時空》たる主体が歩行すれば主体に接して左右に時空のカルマン渦が発生する。つまり、《固時空》たる主体もまた渦構造をした存在に違ひないのだ。
舞踊に回転や渦巻き運動が多く、それが神聖なものと看做されたり死者との邂逅の儀式であつたりするのもDNAの二重螺旋から発する《渦》と無関係ではなく、むしろ《固時空》たる主体が渦構造をしてゐると考へた方が自然で合理的だ。
――エドガー・アラン・ポーが「ゆリイカ」の初めの方で書いてゐる『エトナの絶頂から眼をおもむろにあたりに投げる人は、おもにその場の拡がりと種々相とに心をうたれるのでありますが、これがくるりと踵でひと廻りしないかぎりは、その場景の荘厳な全一というパノラマは所有し得ないわけです。』(出典:創元推理文庫「ポオ 詩と詩論」 訳:福永武彦 他;二百八十四頁から)の実現だ。廻れ廻れ、全て廻れ! 


浅川マキと高田渡と江戸アケミ

何時もはClaasic音楽漬けの日々、特にシゆニトケ(ロシア)、ベルト(エストニア)、グバイドゥーリナ(ソ連→ドイツ)、武満徹などロシアと日本を含めたロシア周辺の現代作曲家の作品を好んで聴く日々を送つてゐるが、時折、日本のMusicianで言へば浅川マキと高田渡と江戸アケミの三人の歌声が無性に聴きたくなることがある。
閑話休題。
音楽と言語は極端に言へば現代理論物理学の実践に他ならないとつくづく思ふ今日この頃だが、つまり、量子力学的に言へば、音楽は波を主軸に、言語は量子を主軸に置いた理論物理学の実践である。
先づ音楽であるが、音符などの記号といふ『量子』と、音といふ『波』の二面性がある。しかし、音楽の記譜に用ひる記号は音の状態のみに特化したものなので音楽は感性的で抽象性が強い表現方法である。多分、一流の演奏家は作曲家の頭蓋内を覗き込むかのやうに眼前に記譜された楽曲を理解してゐるに違ひないと思ふが、私のやうな凡人には楽曲の演奏を聴いて魂が揺さぶられるが、何故? と問はれてもそれは言葉では表現出来ない情動なのである。
次に言語であるが、文字といふ『量子』と、読みといふ『波』の二面性がある。特にここでは日本語に絞つて話を進めるが、もしかすると理論物理学の実践といふ点で言へば日本語が最先端を行つてゐるのかもしれない。