夢幻空花なる思索の螺旋階段
また、余談ではあるが眼球は個時空たる主体のGyroscope(回転儀)と看做せなくもないのである。平衡感覚は三半規管で感知するが個時空たる主体の位置や方向などは全て眼球無くしては把握不可能である。これは単なる憶測に過ぎないが、多分、量子力学で言ふ光子はSpinが1であるので網膜がこのSpin 1を感知して個時空たる主体の位置や方向を感知してゐるのかもしれないのである。つまり、Gyroscopeはそれ自体が回転することによつてその回転軸に対しての相対的な関係で位置等を把握するが眼球は光子のSpinを逆に利用して恰も眼球自体が回転してゐるかのやうに把握してゐるのかもしれないのである。
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ゆつくりと瞼を閉ぢると左目の瞼裡には時計回りの、右目の瞼裡には反時計回りの勾玉の形をした光の玉が闇の周縁をゆつくりと回るカルマン渦が見えるのであつた……。
波紋
川面をずうつとゆつたりと眺めるのには川の流れの進行方向に対して右岸から眺めるのが一番である。つまり、水が左から右へと流れ行く様が私は大好きなのである。その理由の淵源を辿つて行つたならば八百万の神々に行き着いてしまつたのであつた。
それは絵巻物を眺める様によく似てゐる。紙自体は右から左へと流れるが紙上に描かれてゐる絵巻は左から右へと流れて行くのである。さうして紙上は絶えず《現在》を出現させるのだ。これは個人的な見解であるが紙に天地を定め此の世の森羅万象を紙上に表せると太古の人々が考へたかどうだかはいざ知らず、しかし、例へば文を記すのにも右上から縦に書き出すそれは、文の進み行く方向、つまり右から左へと一行ごとに進むその右からの視点を《神の視点》とすれば日本語の縦書きは書き手の右に神が鎮座してゐるとも解釈できるのである。さうすると横書きは当然頭上に鎮座する神といふ事になる。といふことは縦書きは書き手と八百万の神々が平等の位置に居ると解釈できるのである。その解釈からすると紙上に何かを表すとはその八百万の神々との戯れでもある。
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或る日引き潮の時刻を見計らつて河口からほぼ二十キロほど上流の川辺へ川を見に出かけたのであつた。それは偶然にも夕刻のことであつた。辺りは次第に茜色に染まり始め、見ようによつては此の世が灼熱の火の玉宇宙に化した如くであつた。うらうらと茜色に映える川面。丁度その時一尾の魚が羽化した水生昆虫の成虫を喰らふために跳ね上がつたのであつた。その時生じた波紋。それは神の鉄槌の一撃で爆発膨張を始めたであらう宇宙創成時の波紋にも似て、更に世界が波打ち時が刻まれ始めてしまつた時のもう過去の《無》の時代には引き戻せない波紋にも似て、何やら名状し難い美しさと凄まじき恐怖に満ちてゐた。
高層族
あの身を刺すやうな垂直線が無数に林立する大都会の風景に慣れることは一生無いだらうと腹を括つたつもりでゐたが、いざ大都会の街並みを目の前にすると垂直線の恐怖で身が竦んでゐる自身に苦笑するしかない。
それにしても何故高い住居費を出してまであんな高層階に棲むのかその棲む人の気が知れない。高層ビルはアインシゆタインの特殊相対性理論から一種の過去へTime SlipするTime Machineであることを知つて皆あんな高層に棲んでゐるのだらうか。
主体の現在が皮膚の表面といふことと一緒で地球自体の現在は地肌が剥き出しになつた地表である。その地表に高層ビルを建てればそれだけ地球の自転による回転速度が地表よりビルの高さ分増し、特殊相対性理論から高層ビルを流れる時間の流れは地表より極々僅かでしかないがゆつくりと進むのである。高層ビル群に棲んでその時間がゆつくりと進む感覚が感知できない現代人は感覚がとつくに麻痺して感覚器官が退化してゐるといふことで、既に人間では無いのかも知れないのである。これは由々しき事態で多分地表と高層との時間の進み方の違いを感覚的に感知した人間はその理由が解らず深い悲しみと苦悩の中に追い込まれ遂には自殺すると考へられなくもないのである。感覚が敏感な人間は都会に馴染めずあの身を刺す垂直線の地獄から逃れるために《過去》である高層ビルの屋上から《現在》である地面に一気に飛び込んで飛び降り自殺――自殺はまた地獄行きである。何故なら生きていくのが辛いといふ苦痛に身悶えした現世の意識と感覚が未来永劫《私》であるといふ地獄へまで引き摺つて行くのである。そこは正に「嫌だ、嫌だ」といふ呻き声ばかりする阿鼻叫喚の世界である――をして死んでしまひ、時間の感覚に鈍感な《人間》の子孫ばかりが生き残るといふこと、つまり今は人間が退化して《何物》かへと変はる過渡期なのかもしれないが、それが《進化》といふならそんな《進化》は御免蒙るしかないのである。故に高層ビルに棲める都会人は最早退化した人間でしかなく、そんな得体の知れない《人間》とはなるべくなら関はりたくないといふのが本音である。
それとは逆に地下は地表より地球の回転速度が僅かではあるが遅いので特殊相対性理論上、《未来》へのTime Machineとも言へる。だから地下は目的なければ近寄らない方がよいのである。目的無き未来にぽつんと置かれれば猜疑心や不安等に襲はれ一分たりともそこには居たくない筈である。さうでなければ自身を退化した、人間ならざる何物かといふことを自覚して感覚を研ぎ澄ます訓練をしなければ《人間》は絶滅する。
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矢張り都会に来たのがいけなかつたのだ。こんな《人間》ならざる魑魅魍魎が跋扈する不気味な世界からはさつさと退散するに限る。
死神
人類が大きな勘違ひをしてゐることが一つある。それは仮令人類が地上から消えようがそれは所詮人類のみの問題であつて、地球は勿論、宇宙にとつても人類が滅亡せうが生き残らうがどうでも良い、即ち問題にすらならないある一つの事象に過ぎず、地球にとつても、まして宇宙にとつても人類の存在なんぞ歯牙にすらかけてゐない、全く下らない事象に過ぎないのだ。
唯、自然がこれ以上人類の存続を許さなかつたならば自然は眦一つ動かすことなくその冷徹な手で自然に必要な数の人類を除いて残りは全て自然災害等で間引く、つまり人類の大量虐殺を何の躊躇ひもなく行ふといふことである。
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それは突然役所で決まつて、ある朝、突然畑に舗装道路を通すための測量が始まつた。後はAsphalt(土(つち)瀝青(れきせい))で舗装すればその道路は完成といふところまでは何の問題もなかつたやうに思ふが、さて、いざ土瀝青を敷いて道路を舗装し終へた翌日の朝、舗装された道路やその周辺では大量の蚯蚓(みみず)が死んでゐたのであつた。土瀝青の上で力尽き野たれ死んでゐる何百匹の蚯蚓の外にも、まだ蓋のしてない側溝の中にも何百匹もの蚯蚓が力尽き死んでゐたのであつた。その異様な光景は多分土瀝青を敷くときに使われた何かの薬品の所為に違ひないのである。地中といふ地球における《未来》に棲む蚯蚓は多分に生物の未来をも担つてゐる筈で、その蚯蚓の大量虐殺は生物の《未来》の抹殺をも意味してゐたに違ひない。
作品名:夢幻空花なる思索の螺旋階段 作家名:積 緋露雪