夢幻空花なる思索の螺旋階段
彼の髑髏の眼窩を覗き込む儀式は斯くの如く執り行われるのであつた。先づ、髑髏を覗く前に真夜中の夜空を数分見上げ続けた後、即座に髑髏の眼窩を覗き込むのであつた。多分それは眼前の虚空に宇宙を思ひ描くために行われてゐたに違ひなかつた。しかし、彼の眼前に宇宙が出現してゐたかどうかは不明である。
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――何たる光景だ。今は髑髏になつてしまつたこの人の脳裡にも必ずこんな光景が浮かんでゐたに違ひない。無数の星が明滅してゐるではないか。凄い。そして、彼方此方でその星星が爆発してゐる……。これが宇宙の死滅の光景か……。Black hole(ブラつクホー)は何処だ! これか。あつ、Black holeがぽつといふ音にならない音を立ててゐるかのやうにして消えたぞ。凄い、凄過ぎるぞ、この光景は……。
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彼が真夜中髑髏の眼窩を覗いて何を見てゐたのか誰も解らない。彼は不意に意味もなく自殺してしまつたのであつたから……。
主体、蜂起す
――誰だ、この門を閉ざしてしまつたのは……
主体共が世界に疎外されて久しいが、ぶつぶつと彼方此方でその不満を呟く主体のざわめきが何時しかこの世に満ちてしまつたのだ。
――ハイデガーの言つた《世界=内=存在》は嘘だつたのか!
――馬鹿めが。お前らが《世界=外=存在》の世界を好んで選んだのではないか。
現代人ならば誰でも抱へる疎外感。それが何処からやつてくるのか暫く解らなかつたが一人の主体が自身の姿を鏡で見て驚いたところからその謎が解け始めて行つたのである。
――これは ! 轆轤首ではないか……。
――その轆轤首は誰かね。答へ給へ!
――……。
――逃げずに答へ給へ !
――わた……、……し……かな……。
――良く聞こへなかつたがね。もう一度はつきりと言へ ! お前は誰だ !
――わ……た……し……、ちぇつ、《私》だ。
――もう一度。
――私だ。間違ひ無い。《私》以外の何者でもない。私だ。
さて、轆轤首は歩けるのだらうか。眼玉が伸縮自在な蝸牛から連想するに轆轤首が全く歩けない哀しい存在だといふことは想像に難くない。
――お前に尋ねるがお前の世界認識の基盤になつてゐるものは何だね。
――哲学……かな……。
――否 !
――ふむ……。……か……が……く……かな……。
――さうさ、科学だよ。科学が創つた客観が支配する世界観に於いて主体の演じる役目は何かね。
――ふむ。……観察者……かな……。
――さうだ。観察者は何時も客観世界の何処にゐるかね。
――ふむ。……が……い……ぶ……、外部だ。
――はつは。もうお前も解つただろ、此の世の仕組みが。
便利を受け入れ始めたときに既に主体が世界から疎外されることは必然だつたのである。今では可笑しくて仕方が無いんだが、態々世界を《外部化》するためにCameraで世界を写し画面を通して世界を見る馬鹿なことが《普通》になつてしまつた摩訶不思議な世界に人間は暮らしてゐるのである。そして、《仮想世界》などと喜んで世界にKeybordなどの装置を通して間接的にしかその世界に参加出来ないことが進歩だと思つてゐるのである。全く馬鹿としか言ひ様が無い。何せ夜空でさへ見上げるのではなく前方にあるMonitorといふ装置を通して見る生き物だから、人間は。
――さあ、主体共よ、立ち上がる時が来た ! 蜂起だ !
――おう !
しかし、轆轤首と化した主体が歩ける筈は無く、皆歩かうとすると直ぐ転ぶ醜態を曝すしかなかつたのである。
――先づは這ひ這ひから始めろ、へつ。
静寂(しじま)
十六夜の月明かりに誘はれて何処に行くとも決めずにふらふらと歩いてゐると、どうやら川辺に来てしまつたやうだ。其処に蹲ると周囲に鬱蒼と繁茂してゐる葦原のお蔭で都会の街明かりが全て遮られ全くの十六夜があつたのである。光るものといへば川面に映る十六夜の月明かりのみであつた。その月明かりを傍らに立つてゐる柳の高木の葉々が時折ふわりと横切る風情は何とも言ひがたいほどの美しさであつた。
――ぴちやつ。
何処かで魚が跳ねたやうだ。うらうらと魚の跳ねた後に残された波紋がゆつくりと拡がり川面の月明かりをゆつたりと揺らす。
――さわさわ……。
微風が葦原をそつと揺らす。
何やら夢現の世界に迷ひ込んだやうだ。私以外のものが発する無数の時空のカルマン渦が犇めき合つて更に大渦の時空のカルマン渦を形作り更に更にそれらの大渦が巨大な巨大な巨大な奔流となつて大宇宙全体をすつぽりと飲み込む時空の大カルマン渦が出来上がつたその巨大な巨大な巨大な時空のカルマン渦に唯吾身を任せてゐることの心地良さは名状し難い。諸行無常。現在に保留された私はこの世界にたゆたふのみである。
――ぴちや。
再び川面に跳ね上がつた魚が発した波紋が静寂の波紋と重なつてこの世全てにゆつくりとゆつくりと拡がつて行く様が脳裡全体に拡がつて行く。吾もまた波体となつて脳裡に納められた全宇宙に波紋となつて拡がつて行くのであつた。
――私が此の世に溶け行く心地良さよ……。
虚体考 弐 眼球
遂に「零の穴」の入り口を見つけた。何のことはない、それは瞳孔だつたのである。
――遂に辿り着いたな。やつとのこと見つけたぞ。Eureka!
一瞥のもと外界に存在する実体をしかと捉へる眼球は外界の光量によつて自在にその大きさを変へる瞳孔無くしては始まらない。瞳孔を境にして外部は実体の世界、内部は虚体の世界である。それが瞳孔が「零の穴」たる所以である。
さて、外界に昼夜があつて一日があるやうに個時空たる主体にも個時空特有の昼夜が存在する。それは瞼の一開閉で個時空の昼夜が完結、即ち個時空の一日が終はるのである。つまり、外界の二十四時間といふ一日の中に個時空たる主体固有の一日は瞼の開閉の数だけあるといふことである。しかも個時空たる主体の一日の時間の長さは千差万別で瞼の開閉の間隔と瞼を閉ぢてゐる時間の長さによつて、例へば外界で言へば北極圏であつたり熱帯であつたり春夏秋冬であつたりと様々であるといふことである。
ここでは外界の実体世界の話は脇に置き内界の虚体世界の話に絞るが、さて、虚体世界を覗くには先づ瞼を閉ぢなければ始まらない。
瞼裡に浮かぶ表象とか仮象とか夢想とか様々に呼ばれてゐるものは深海に生息する生物の中で自己発光する生物と看做せなくもない。更に集中とか思索とか様々に呼ばれる沈思黙考は内界にSerch Lightを当てて内界の闇に隠れてゐる《陰体》を見つける作業とも言へる。そして《虚の波体》は未だ未出現の形ならざる波体として内界で蠢動してゐる物自体の影絵とでも言へば良いのか、そのやうな《もの》として内界に《在る》のである。
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内界に秘かに人知れず潜み続ける《虚体》共がのそりと蠢く時、何か未だ未出現の何かが此の世に出現せうとゆつくりとその瞼を開けうぉぉぉおつと呻き声を上げるのだ。その時だ、私がぶるるつと身震ひするのは。ぷふぃ。
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作品名:夢幻空花なる思索の螺旋階段 作家名:積 緋露雪