夢幻空花なる思索の螺旋階段
その呻き声は水面の波紋の如く闇全体にゆつくりとゆつくりと響き渡つては何度も何度も闇の中で何時までも反響を繰り返してゐた。
――嗚呼、吾はそもそも《存在》してゐるのか!
兆し
それはそれは不思議な感覚であつた。私が珈琲を一口飲み干すと、恰も私の頭蓋内の闇が或る液体と化した如くに変容し、その刹那ゆつたりとゆつたりと水面に一粒の水滴が零れ落ちてゆらゆらと波紋が拡がるやうに私の頭蓋内の闇がゆらゆらと漣だつたのであつた。そして、私の全身はその漣にゆつくりと包まれ、私は一個の波動体となつた如くにいつまでもいつまでもその余韻に浸つてゐたのであつた。
それは譬へてみると朝靄の中に蓮の花がぽんと小さな小さな音を立てて花開く時のやうにその花開いた時の小さな小さなぽんといふ音が朝靄の中に小さく波打つやうに拡がるやうな、何かの兆しに私には思はれたのであつた。意識と無意識の狭間を超えて私の頭蓋内が闇黒の水を容れた容器と化して何かを促すやうに一口の珈琲が私に何かを波動として伝へたのであつたのか……。私は確かにその時私が此の世に存在してゐる実感をしみじみと感じてゐたのであつた。
――この感覚は一体何なのだらう。
私の肉体はその感覚の反響体と化した如くに、一度その感覚が全身に隈なく伝はると再びその波立つ感覚は私の頭蓋内に収束し、再び私の頭蓋内の闇黒に波紋を呼び起こすのであつた。その感覚の余韻に浸りながらもう一口新たに珈琲を飲み干すと再び新たな波紋が私の頭蓋内の闇黒に拡がり、その感覚がゆつくりとゆつくりと全身に伝はつて行くのであつた。
――生きた心地が無性に湧き起つて来るこの感覚は一体何なのであらうか。
それにしてもこれ程私が《存在》するといふ実在感に包まれることは珍しい出来事であつたのは間違ひない。私はその余韻に浸りながら煙草に火を点けその紫煙を深々と吸いながら紫煙が全身に染み渡るやうに息をしたのであつた。
――美味い!
私にとつて珈琲と煙草の相性は抜群であつた。珈琲を飲めば煙草が美味く、煙草を喫めば珈琲が美味いといふやうに私にとつて珈琲と煙草は切つても切れぬ仲であつた。
煙草を喫んだ事で私の全身を蔽ふ実在感はさらに増幅され私の頭蓋内の闇黒ではさらに大きな波紋が生じてその波紋が全身に伝わり私の全身をその快楽が蔽ふのであつた。
――それにしてもこの感覚はどうしたことか。
それは生への熱情とも違つてゐた。それは自同律の充足とも違つてゐた。何か私が羽化登仙して自身に酩酊してゐる自己陶酔とも何処かしら違つてゐるやうに思はれた。しかしそれは何かの兆しには違いなかつた筈である。
――《存在》にもこんな境地があるのか。
それはいふなれば自同律の休戦状態に等しかつた。自己の内部では何か波体と化した如くにその快楽を味はひ尽くす私のその時の状態は、全身の感覚が研ぎ澄まされた状態で、いはば自身が自身であることには不快ばかりでなく或る種の快楽も罠として潜んでゐるのかもしれないと合点するのであつた。それは《存在》に潜んでゐる罠に違いなかつたのである。私はその時《存在》にいい様にあしなわれてゐただけだつたのかもしれぬ。
――しかしそれでもこの全身を蔽ふ感覚はどうしたことか。
絶えず《存在》といふ宿命からの離脱を夢想してゐた私にはそれは《存在》が私に施した慈悲だつたのかもしれぬと自身の悲哀を感じずにはゐられなかつたのである。それは《存在》が私に対した侮蔑に違いなかつた。
―《存在》からの離脱といふ不可能を夢見る馬鹿者にも休息は必要だ。
《存在》がさう思つてゐたかどうかは不明であるがその時自己に充足してゐた私は、唯唯、この全身を蔽ふ不思議な感覚にいつまでも浸りたい欲望を抑えきれないでゐた。
――へつ、それでお前の自同律の不快は解消するのか。そんなことで解消してしまふお前の自同律の不快とはその程度の稚児の戯言の一つに過ぎない!
その通りであつた。私は全身でこの不思議な感覚に包まれ充足してゐるとはいへ、ある疑念が頭の片隅から一時も離れなかつたのである。
案の定、その翌日、私は高熱を出し途轍もない不快の中で一日中布団の中で臥せつて過ごさなければならなかつたのである。
あの不思議な充足感に満ちた実在を感じた感覚は病気への単なる兆しに過ぎなかつたのであつた……。
拘泥
夢魔にでもうなされたのであらう、その日は寝汗をびつせうりとかいて彼はその日目覚めなければならなかつたのであつた。
――もしや体調でも崩したか。
何か途轍もなく奇妙な夢を見てゐた気がするのであつたが目覚めと同時に夢の内容は頭蓋内の闇の何処かへ葬り去られて記憶に残らず、彼はそのことがとんと納得がいかない様子であつた。
――とんでもない内容の夢を見た気がするんだが、はて、どんな内容だつたか。まあ良い。
彼は夢の事にはそんなに拘りもせずに寝汗でびつせうりになつた寝着が気色悪かつたので着替へるためにゆつくりと蒲団から這い出して着替へたのであつた。
外は既に日暮れ時を迎へてゐた。夜が明けなければてんで寝付けない彼にとつて昼夜逆転の生活は当然の帰結であつた。
彼は着替へると布団の上に胡坐をかきぼんやりと煙草をくゆらし始めたのであつた。
―それにしてもこの焦燥感。一体どうにかならないものかな。
彼は日々漠然とした焦燥感に、それも自身の存在自体に起因する漠然とした焦燥感に苛まれてゐたのであつた。
――悪寒がするな。何としたものだらう。現状は多分自分を持て余してゐる証拠だな。どう転んでも私は私でしかないか!
彼は手元の読み掛けの本を何気なしに手にとつてぱらぱらと捲つてある個所に目を留めその文章を黙読したが直ぐにその本をぽんと放り投げてしまつたのであつた。
――この本にはおれが求めてゐるものが何一つ書かれてゐないぜ。
彼は紫煙を思い切り吸い込みそして溜息をふうつと吐くのであつた。
――何もかもが下らない。
彼は寝覚めの珈琲を淹れる為に湯を沸かしにかかつた。
――何もかもが虚しいといふこの感覚はどうにかならないものか。私を存在させるこの宇宙を吃驚させられたら俺は満足なのかもしれないな。へつ。馬鹿馬鹿しいか? 小林秀雄じやないが存在の陥穽にすつぽりと嵌つてしまつてしまつてゐるぜ。へつ。
湯が沸き珈琲を淹れて彼は再び布団の上に胡坐をかいて坐したのであつた。そして珈琲を一口口に含んだのである。
何処からか梵鐘の響きが聞こえてきた。
――今のところ宗教には逃げ込めぬ。何ものかへの帰依は今の俺にとつて完全なる敗北だからな。
彼は再び珈琲を口に含む。
――どうしたものだらう、自分の存在に我慢がならないといふのは、へつ、如何ともし難いぜ、ふつふつ。
彼はゆつたりとした息で煙草の煙を吸ひ込みこれまたゆつくりとした息で煙草の煙を吐き出すのを何度も何度も繰り返すのであつた。実のところ彼は途方に暮れてゐたのであつた。若者ならば一度は通らなければならない自意識の置き処の不安とでもいふのか自身の存在の不安定さを何と扱つたら良いのか解らず、自分を持て余していつも不機嫌極まりなかつたのであつた。彼は私が私であることに腹を立ててゐたのである。
――どうして私は私なのだ!
作品名:夢幻空花なる思索の螺旋階段 作家名:積 緋露雪