夢幻空花なる思索の螺旋階段
陰影――断章 参
真夜中、電灯を消したまま悠然と煙草を吹かしてゐし時、何者かが
――ぷふいつ。
と咳(しはぶ)く音がせし。
余はそれでも悠然と煙草を吹かすなり。
――ぷふいつ、ぷふぃつ。
――何者ぞ!
と余は問ひしが沈黙あるのみ。余はそれしきの事には御構ひなしに再び煙草を悠然と吹かすなり。唯この部屋の中では煙草の先端の橙色の明かりのみが明滅するなり。すると、忽然と
――わつはつはつ。汝何者ぞ!
と問ひし声が響き渡りし。
――何者ぞ!
と余は再び問ふなり。しかし、この部屋には唯沈黙あるのみ。余は眼前に拡がりし闇を唯凝視するばかりなり。本棚の本等の《もの》は皆全て息を潜め闇の中に蹲るなり。
余は再び問ふ。
――何者ぞ! 其は何者ぞ!
辺りは矢張り沈黙が支配するのみ。余は無意識に煙草の灰を灰皿にぽんと叩き落とし、その様をぼんやりと見し。すると、ぽつと灰皿が煙草の火で照らし出されし。
――ぷふぃつ。
と再び何者かが咳きし。今度ばかりは余はその咳きには知らんぷりを決め込み、悠然と煙草を吹かすなり。
余の眼には煙草を吸ひ込みし時に煙草の火がぽつと火照つたその残像がうらうらと視界で明滅するなり。余はゆつくりと瞼を閉ぢし。そして、ゆつくりと瞼を開け煙草の火をじつと見し。煙草を挟みし手をゆらりと動かすと、煙草の火は箒星の如く尾を引き闇の中を移動するなり。その橙色の箒星の残像は美しきものなり。その様はAurora(オーロラ)を見るが如くなり。余はその美しさに誘はれて何度も何度も眼前で煙草の火をゆらりゆらりと動かすなり。何処なりとも
(道元著「正法眼蔵」より)
「時節(じせつ)若(にやく)至(し)」の道を、古今のやから往々におもはく、仏性の現前する時節の向後(きようこう)にあらんずるをまつなりとおもへり。かくのごとく修行しゆくところに、自然(しねん)に仏性現前の時節にあふ。時節にいたらざれば、参師問法するにも、辧道功夫するにも、現前せずといふ。恁麼(いんも)見取(けんしゆ)して、いたずらに紅(こう)塵(ぢん)にかへり、むなしく雲漢をまぼる。かくのごとくのたぐひ、おそらくは天然外道の流類なり。
※註 道……ことば 恁麼見取して……このやうに考へて 紅塵……世俗の生活 雲漢……天の川 まぼる……見つめる
と、何者かが読誦する声が部屋中に響き渡りし。その見下しきが幽玄たる様この上なし。この部屋を蔽ひし闇は煙草の先端の火に集まりしか。不意に闇が揺らめき出した気がし、余は恥ずかしながら僅かばかり不安になりし。
――ぷふいつ。
――其は何者ぞ!
――ぷふぃつ、汝の影なり。
――余の影? 馬鹿を申せ!
再びこの部屋は沈黙と闇とが支配するなり。余の視界には煙草の火の残像がほの白く明滅するなり。
――闇中に影ありしや。
と余は問ひし。
――ぷふぃつ、この闇全て吾なり。汝は吾の腹の中ぞ。わつはつはつ。
――これは異なことを申す。影は余に従ふものぞ。
――このうつけ者! 汝が吾が影に従ふ下等な《存在》なり。ぶぁはつはつはつ。
――余が影の従属物? そもそも吾とは何ぞや。
余は何か鈍器で頭をぶん殴られた心地するなり。光無ければ、余は影の腹の中にゐしか。くつ。
――それぞそれ。その屈辱が汝を汝たらしめるなり。
嘲笑つてゐやがりし。影は余を見て嘲笑つてゐるなり。これが屈辱? 馬鹿らしき。だが、しかし、余はこの闇に包まれし部屋でじつとする外なし。
――ぷふぃつ、悩め、悩め! それが汝に相応しき姿なり。
――くつ。
余は歯軋りせしが、この屈辱は認める外なし。
――くつ。光無くても闇はありきか、くつ。
唯闇の中に煙草の火が仄かに輝きし。
深淵 弐
闇また闇。吾もまた闇。闇はしかし《無限》を誘ふのだ。果て無き闇故、闇の中に今蹲るまた闇の吾は闇に溶け入るやうな錯覚を覚える。
――吾は《無限》なりしや。
ところが吾に執着する吾は途端に身震ひして吾であることを渇望する。
――けつけつけつ、お前はちつぽけなお前でしかない。
と、何処とも知れぬ何処かで闇が吾を嘲笑ふ。と、その刹那吾は闇の中の《浮島》に浮いてゐるのみの吾が置かれた現状を思ひ出し血の気がさつと引き蒼ざめる。
――嗚呼。
眩暈が吾を襲ふ。
――このまま闇の中に投身せうか……。
闇は吾に闇に飛び込むことを強要する誘惑者であつた。吾は絶えずええいつと闇に飛び込む吾を想像せずにはゐられぬまま、唯じつと《浮島》の上で蹲る外なかつた。この《無限》に拡がるやうに見える闇また闇の中、吾の出口無し。
――矢張り吾に《無限》は持ち切れぬか……。
――けつけつけつ、お前はやつぱりちつぽけなお前さ。
と再び何処とも知れぬ何処から闇が吾を嘲笑ふ。
とその刹那、吾はすつくと立ち上がり闇のその虚空を睥睨する。
――己自身に対峙出来なくて何とする!
さうである。この闇全てが吾なのだ。吾の心に巣食ふ異形の吾達がこの眼前の闇の中に潜んでゐる。闇は吾の頭蓋内の闇と呼応し吾の心を映す鏡に思はれた。
――異形の吾の気配共が蠢き犇めき合ふこの闇め!
それ故、闇は《無限》を誘ふのか。彼方此方に吾の顔が浮かんでは消え、また、浮かんでは消える……。
――へつ、お前は己の顔を見たことがあるのか? これまでずつと腕に顔を埋め自己の内部に閉ぢ籠つてゐたくせに?
さうであつたのだ。吾は己の顔をこれまで見たことがない。それにも拘らず吾は己の顔を知つてゐる。不思議であつた。眼前の闇に生滅する顔、顔、顔、これら全てが吾の顔であつた。さうとしか思へない。
――けつけつけつ、どれがお前の顔かな? けつけつけつ、この顔無しめが! お前もまた闇なのさ、ちぇつ。
吾が闇? これは異なことをいふものである。だが、しかし、吾も闇か?
――闇であるお前が吾なぞとほざくこと自体が笑止千万だ!
しかしである。吾は吾が《存在》してゐることを感じてゐるし知つてゐる筈だ。これはどうしたことか? 吾は闇?
――嗚呼、もしかすると吾は闇の鬼子なのかも知れぬではないか。
それは闇における不穏な動きを伝える前兆なのであつた。それは闇に芽生えた自意識の始まりなのであつたのかも知れぬ……。
――吾は吾である……のか……。ふむ、む! 揺れてゐる?
さうなのであつた。闇全体が何故か突然とぶるぶると震へ出したのであつた。闇もまた《自同律の不快》によつて何か別の《もの》への変容を渇望する……。
――吾が吾であることのこの不愉快。闇もまたこの不愉快を味はつてゐるのか……。
吾は再び眼前に《無限》に拡がる闇の虚空を睥睨する。
――《無限》もまた《無限》を持ち切れぬのか……。
眼前の闇には今も無数の顔が生滅する。
――解らぬ。何もかもが解らなくなつてしまつた……。そもそも眼前の闇に去来する無数の顔は吾の顔なのか……。吾そのものが解らなくなつてしまつた……。
次第に意識が混濁し始めた。吾の意識が遠くなる……。
――嗚呼、この吾と感じてゐるこの吾は……そもそも《存在》してゐるのか……何もかもが解らなくなつてきた……。
闇また闇の中に一つの呻き声が漏れ出る……。
――嗚呼!
作品名:夢幻空花なる思索の螺旋階段 作家名:積 緋露雪