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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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夢幻空花なる思索の螺旋階段

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それは不思議な感覚であつた。自身が高周期で振動する振動子になつたかの如き感覚で、それは心臓の鼓動による振動とは全く違つた顫動であつた。敢へてその感覚を名状すれば、差し詰め私自身が此の世の本源たるモナドの如き振動子として《存在》の根源、否、毒虫となつたカフカの「変身」の主人公、ザムザの足掻きにも似た自身の焦燥感に打ち震へた末に自身に自身が打ちのめされて泡を吹き脳震盪を起こして卒倒してぶるぶると震へてゐるやうな、若しくは私が決して触れてはいけないカント曰く《物自体》に触れてしまつてその恐ろしさにずぶ濡れの子犬がぶるぶると震へるやうにその恐怖に唯唯慄く自身を、一方でしつかりしろと自身を揺すつて覚醒させやうともがいてゐる私自身による震へといつたやうな、或いは殺虫剤を吹き掛けられて神経系統が麻痺し仰向けに引つ繰り返つて翅をぶんぶんとか弱く打ち震はせてゐる蠅のやうな、兎に角、尋常ならざる状態に私が置かれてゐるのは間違ひなかつたのかもしれなかつたが、それは未だに定かではない。といふのも、その日以来、特に新月と満月の日とその前後に自身が顫動してゐる錯覚が度度起きるやうになつてしまつたのだが、病院での精密検査の結果は異状なしであつたからである。
それは兎も角、例へばその顫動が私の体躯と意識、若しくは体躯と魂との微妙なずれによつて返つて私の自意識若しくは魂が私の体躯に無理やりしがみ付くことで起こる異常な意識の振動だとすれば、私は新月と満月とその前後の日にすうつと《死》へ意識の足を踏み入れてしまつてゐたのかもしれなかつた。或いはそれはもしかすると私の意識若しくは魂が幽体離脱せうとしながらもそれが果たせず私の体躯に縛り付けられもがいてゐる無様な自意識の様なのかもしれなかつた。兎に角、私に何か異常な現象が起こつてゐるとしか思へぬほど私が顫動してゐる自身を私は確かに確実に認識してゐたのは間違ひなかつた。それは錯覚などではない、と私は確信したのである。
私はその顫動を取り敢へず我慢する外なかつた。この顫動は、さて、如何したことであらう。一瞬だが私が一気に膨らみ巨大な巨大な巨大な何かに変容したやうな或る不思議な感覚に捉はれるのであつた。と思ふ間もなく私は一瞬にして萎み小さな小さな小さな何かにこれまた変容したやうな不思議な感覚に捉はれるのであつた。何としたことか! この《私》といふ感覚が一瞬にして急変する事態に私は戸惑ひながらも心の何処かで楽しんでゐた。この極大と極小の間(あはひ)を味はふ不思議。最早《私》は《私》ではなく、とは言へ、結局のところ《私》から遁れられない《私》にちぇつと舌打ちしながらもこの不思議な感覚に身を任せる快感の中にゐることは、敢へて言へば苦痛が快感に変はるSadismとMasochismにも似た倒錯した自同律の快楽と言ふ外なかつたのであつた。しかしながらこの悦楽は危険であると《私》は本能的に感じてゐたのも間違ひなく、その日は私は徐に蒲団から起き上がり立ち上がつたのであつたが、哀れ、私はそのまま気を失つて卒倒してしまつたのである。多分、私が気を失つてゐたのは一、二分のことだらうが、しかし、目の前が真つ白な状態から真つ暗な状態へとゆつくりと移ろひゆくその卒倒してゐた時間は私には一時間ほどにも感じられたのであつた……。
――見つけたぞ。奴を捕まえた。
さう思つた刹那、私は顫動する私を見出し私に気が付いてしまつたのである。
――泡沫の夢か……。
一瞬だが私は《私》以外の何かに変貌した自身を仄かに感じたのであつた……。そして、後に残つたものと言へば敗北感しかなかつたのである……。


考へる《水》 六 ‐ 『躓きの石』

パスカル著「パンセ」(筑摩書房:世界文学全集11~モンテーニゆ/パスカル集:)より

五七一
 なぜ象徴かという理由。――
(略)
 かくして、敵という語は最後の目的いかんにかかつているので、義人はそれを自分たちの情欲と解したが、肉的な人々はそれをバビロニア人と解した。それゆえ、これらの語は不義な人々にとつてのみ曖昧であつた。イザやが「律法をわが選びたる者のうちに封印すべし」と言い、また、イエス・キリストのことを躓きの石となるであろうと言つたのは、このことである。しかし、「彼に躓かぬ者は幸いなり。」ホセアはそのことを完全に言いあらわしている。「誰か知恵ある者ぞ? その人はわが言うことをさとらん。義人はそれをさとらん。神の道は正しければなり。されど悪しき者はそれに躓かん。」

人間といふ生き物は、其処に躓きさうな石があるのを知りながら敢へてその石に躓く生き物のやうな気がする。二足歩行を選び取つた生き物である以上、人間といふ生き物は、何度も何度も石に躓かなければならぬ宿命を生きるやうに定められてしまつたのであらうか。人はそれを修行等と呼んで人間たる者斯くあるべしといふやうに自ら追ひ込む不思議な生き物のやうに思へるのだ。勿論、そんな石は御免蒙ると言つて避けて通り過ぎる利巧な輩が殆どであるが、何百人に一人かの割合で必ず敢へて石に躓き其処で立ち止まり呻吟しながらも何とか一歩の歩を進める者が存在する。先づ初めにして終りの躓きの石でもあるのが《私》なる奇奇怪怪な存在である。

パンセより
四七六
神のみを愛し、自己のみを憎むべきである。
 もし足が、自分の身体の一部であり、自分に依存している一つの身体がある、ということをつねに知らずにおり、自己認識と自己愛だけしか持たなかつたとして、ひとたび、自分が身体の一部であり、それに依存していることを、知つたならば、その足は、自分の過ぎ去つた生活について、また、自分に生命を吹きこんでくれた身体に対して何の役にも立たなかつたことについて、いかばかり後悔し、恥ずかしく思うことであろう! 足が身体から離れた場合もそうだが、身体が足を棄て、足を切り離したならば、足は死滅したことであろう! 身体につらなつたままでいることを、足はどんなにか祈ることであろう! 身体を律している意志の支配に、いかに従順に足は自己をゆだねることであろう! やむをえない場合には、自分が切断されることにも同意するにいたるであろう! そうでないならば、足は肢体の資格を失うことになるであろう! なぜなら、すべての肢体は、全体のためにあえて滅びることをも欲しなければならないからであり、全体こそすべての肢体がそのために存在する唯一のものであるからである。

《私》は必ず自己憎悪といふ針の筵に座らされる。其処で幾ら苦悶の呻き声を上げようが《私》は《私》から遁れられない。人間とは何と哀れな生き物であらうか……。
――許して下さい。
と《私》に訴へたところで《私》は嘲笑ふのみである。《私》が《存在》してしまつた以上、《私》は《私》であることを強ひられるのだ。
――そこで《神》に救ひを求める? 
それも一つの方法であらうが、それでも矢張り針の筵は遁れられない、と思ふ。
――それでも許し給へ。
さう訴へたところで《私》は斯くの如く嘲笑ふのみである。
――へつ、この底無しの深淵の中でもがき苦しみ、それでも自滅せずに生き残るには、《汝自身を知れ》あるのみ、だ! 生き残れ、何が何でも生き残れ、この下衆野郎めが、はつ!