夢幻空花なる思索の螺旋階段
すると、此の世の現代的で先進的な生活は悲哀に満ちてゐることがその前提といふ誠に誠に哀しい現状に人間は置かれてゐるのであるが、それに気付かぬ振りをしてか人間は《現代》の哀れな存在物の中で《文明的》に生活するこれまた哀れな存在である。つまり、極端なことを言へば他者が考へた製品や建築物や街並み等等といふ《他者の脳内》に棲むのが人間といふ哀れな生き物である。
――さて、ドストエフスキイ著「罪と罰」の主人公、ラスコーリニコフが接吻した《大地》は何処に消えたのか……。
――ふふ。人間は既に《他者の脳内》といふ世界を造り上げ其処に引き籠つてしまつたのさ。生の《大地》といふ《現在》からの遁走が人間には心地良いのさ。
――そんな馬鹿な事が……。
――実際、生の《大地》といふ《現在》とは距離が生じた《文明的》である《過去》へ逃げ込んだのさ。ふつ。考へてもみ給へ。面倒臭い《不便》な《現実》を誰が好む? 《便利な生活》といふ《現実逃避》こそ人間の《夢の世界》なのさ。
――そんな馬鹿なことが……。それでは尋ねるが《現実逃避》した《現代》に生きる実感はあるのか?
――ふつ。人間はもう既にそんなものなど望んでなぞゐない。何しろ《文明》といふ甘い蜜の味を、それが失楽園とも知らず知つてしまつたからな。
――それでは人間は生きることをとつくに已めた哀れ極まりない生き物に成り下がつてしまつたのか……。
――ふつ。さうさ。人間は生きながら死ぬといふ離れ業を生きる奇妙奇天烈な生き物に《進化》したのさ。嗚呼、哀れなるかな、人類は……。
またLaser光の一条の閃光が天空に向かつて発振された……。
考へる《水》 四 ‐ 『隧道(ずいだう)、そして瀑布』
隧道(Tunnel)は閉所恐怖症の為かどうも苦手であるが、或る日、壮観な大瀑布が見たくなつて或る滝を見に出掛けたのであつた。
時空間が円筒形に巻き上げられ《現在》の中のみに身を曝し唯唯隧道の出口に向かつて進むのみの或る種《一次元》世界に閉ぢ込められたやうなその隧道の入口に立つと、さて、これは産道を潜り抜けて此の世に《生》を授けられたその瞬間の遠い遠い記憶を呼び起こすのか、または茅の輪くぐりの如く厄を祓ひ《新生》する儀式にも似た《生まれ変はり》を無理強ひするのか、或る種の異界への入口のやうな暗い隧道に対して或る種の恐怖心が不思議に沸き起こつて来るのである。
それは《現在》のみに身を曝すことが即ち《不安》若しくは《猜疑心》を掻き立てるといふ事でもあつた。
ええい、儘よ、と、私はその隧道の中へ歩を進めた。
隧道に溢れ出た地下水が岩盤が剥き出しのままのその隧道の壁面を伝つて流れ落ちる様を見るにつけ、矢張り隧道の中は気味が悪い、が、しかし、《現在》とはそもそも気味が悪いものである。ほんの百メートル程しかないその隧道の明るい出口からは水が流れるせせらぎの音が聞こえて来るのを唯一の頼りに私は足早にその隧道を通り抜けたのであつた。
――ふ~う。
眼前には別世界が拡がつてゐた。其処は渓谷の断崖絶壁の上に築かれた細い道で渓谷の底には清澄極まりない美しい水が渓流となつて流れてをり、彼方からは滝壺に崩落する水の音が幽かに聞こえて来た。
くねくねと曲がつたその細い道を歩き続けて行くと忽然と一条の垂直に水が流れ落ちる滝が視界に出現する。それはそれは絶景である。
さて、滝壺のすぐ傍らまで来ると滝壺に叩き付けられ捲き上がつた水飛沫が虹を作り、さて、百メートル程の落差があるその大瀑布たる滝を見上げると、私はたちどころに奇妙な感覚に捉はれるのだ。普段は水平に流れる川の流ればかり見てゐる所為か巨大な垂直に流れ落ちる水の流れに愕然とし、その感覚は或る種の《敗北感》に通じるものである。それはドストエフスキイ著「白痴」の主人公、ムイシゆキン公爵が病気療養で滞在してゐたスイスの山で見た滝に対した時の感覚にも似てゐるのかもしれない。
其の感覚は言ふなれば無気味な《自然》に無理矢理鷲摑みにされ何の抵抗も出来ぬ儘唯唯《自然》の思ふが儘に弄られた羸弱なる人間の限界を突き付けられ、唯唯茫然と《自然》に対峙する外無い無力な自身を味はひ尽くさねばならない茫然自失の時間である。
――他力本願。
といふ言葉が巨大な滝を見上げながら不意に私の口から零れ出たのであつた……。
――この自然を文明に利用出来、支配出来ると考へた人類は馬鹿者である。
私の眼には絶壁を自由落下する水の垂直の流れがSlow motionの映像を見るが如くゆつくりとゆつくりと水が砕けながら流れ落ちる様が映るばかりであつた……。
パスカル著「パンセ」(【筑摩書房】: 世界文学全集 11 モンテーニゆ/パスカル全集)より
四五五
自我は嫌悪すべきものである。ミトンよ、君はそれを隠しているが、隠したからといつて、それをしりぞけたことにはならない。それゆえ、君はやはり嫌悪すべきものである。
――そんなわけはない。なぜなら、われわれがやつているように、すべての人々に対して親切にふるまうならば、人から嫌悪されるいわれはないではないか?
――それはそうだ。もし自我からわれわれに生じてくる不快だけが、自我の嫌悪さるべき点だとすれば、たしかにその通りだ。しかし、私が自我を嫌悪するのは、自我が何ごとにつけてもみずから中心になるのが不正であるからであるとすれば、私はやはりそれを嫌悪するであろう。
要するに、自我は二つの性質をもつている。それは何ごとにつけても自分が中心になるという点で、それはすでにそれ自身において不正である。また、それは他の人々を従属させようとする点で、他の人々にとつて不都合である。なぜなら各人はの自我はたがいに敵であり、他のすべての自我に対して暴君であろうとするからである。君は、自我の不都合な点を除き去りはするが、その不正な点を除き去りはしない。それゆえ、自我の不正な点を嫌悪する人々に対して、君は自我を愛すべきものとさせることはできない。自我のうちに自分たちの敵を見いださない不正な人々に対してのみ、君は、自我を愛すべきものとさせることができるにすぎない。それゆえ、君は依然として不正であり、不正な人々しか悦ばせることができない。
四五八
作品名:夢幻空花なる思索の螺旋階段 作家名:積 緋露雪