夢幻空花なる思索の螺旋階段
と、其の刹那、一陣の風が吹きしか、吾の頬を慈悲深く温かき御手が優しく優しく撫でし感覚が体躯全体に駆け巡るなり。そして、閉ぢし瞼の杳として底知れぬ闇に後光が射す幻影を覚え、遂にその後光、佛顔に変はりし上は、吾、既に不覚にも卒倒せしやもしれぬ。
さうして、漸くにして吾、瞼をゆるりと開けるなり。太虚を見上げると、既に雲は晴れ上がり半月の月光が南中より吾に射せり。
さて、太虚、吾の頬を撫でしや。さてもしや、吾、夢の中にて彷徨ひしか……。
或るゴキブリの辞世の念
私はそもそも食べ物以外生き物の殺生は嫌ひであるが、御勝手のゴキブリとぶ~んと私の血を求め私を襲ふ雌の蚊だけは罪悪感を感じながらも駆除してゐる。
ところが或る初秋の日に御勝手からは少し離れた所にある私の書斎を兼ねた部屋に一匹の多分雄のゴキブリが潜入して来たのであつた。水もなければ食料もないので直ぐにそのゴキブリは私の部屋から去るだらうとそのまま放つて置いたがそのゴキブリは一向に私の部屋から去らうとせずゐたのであつた。そもそも昆虫好きの私にはゴキブリもまた愛すべき昆虫の一種に違ひなく、御勝手にさへゐなければ別段駆除すべきものではないのである。むしろ、私はそのゴキブリをまじまじと凝視しては
――成程、ゴキブリは神の創り給ふた傑作の一つだ。素晴らしい。
等とゴキブリの姿形に見惚れるばかりなのであつた。ところがである。
――何故このゴキブリは逃げないのか。
実際、このゴキブリは私が凝視しても全く逃げる素振りすら見せず、触覚をゆらゆら揺らしながらむくりと頭を上げ、ゴキブリの方も私を観察してゐるのみでその場から全く逃げずにむしろ何やらうれしさうにも見えるのであつた。この時私は胸奥で
――あつ。
と叫んだがそれが正しいのかはその時は未だ解らなかつたのでそのゴキブリの覚悟を見届けやうとそのゴキブリをそつとして置いたのであつた。
そして、矢張りであつた。そのゴキブリはその時以来私から付かず離れずの絶妙の間合ひで私から離れやうとはしなかつたのである。
私はその部屋に布団を敷いて寝起きをしてゐるが、そのゴキブリは私の就寝中は私の頭の周辺に必ずゐるらしく、私はゴキブリの存在を頭の片隅で意識しゴキブリの気配を感じながら何時も眠るのであつた。
――全く!
そのゴキブリは難行中の僧の如く勿論飲まず喰はずの絶食を多分愉しんでゐた筈である。例へてみればそれは難行を続ける内にやがては薄れ行く意識の中、或る種の臨死体験にも似た《恍惚》状態に陥り、その《恍惚》を《食物》にしてその《恍惚》に更に耽溺してゐるとでもいつた風の、死を間近にしての《極楽》を思ふ存分に心行くまで味はひ尽くしてゐた悦楽の時間であつた筈である。
そんな風にして数日が過ぎて行つた。
そして、そのゴキブリと出会つてほぼ一週間経つた或る夜、就寝中の私の脳裡に忽然と巨大な巨大な巨大なゴキブリの頭が出現したのに吃驚して不図眼を醒ますとゴキブリは私の右腕に乗りじつと私を見てゐるらしいのが暗中に仄かに解るのであつた。
――入滅か……。
と、私はその時自然とさう納得したのであつた。そして、あの脳裡に出現した巨大な巨大な巨大なゴキブリの頭が何を意図したものなのかを考へながらもそのまま再び深い睡眠に陥つたのである。
朝、目覚めると最早あのゴキブリの存在する気配は全く感じられなかつたのであつた。
それから数日経つた或る日、何かの腐乱した異臭が雑然と雑誌やら本やらが平積みになつてゐる何処からか臭つて来るのであつた。果たして、雑誌の下で仰向けになつて死んでゐたあのゴキブリが見つかつたのであつた。私はその亡骸を鄭重に半紙にに包んで塵箱の中にそつと置いたのであつた。それ以来、私は昆虫もまた小さな小さな脳で思考する生き物と看做したのである。一寸の虫にも五分の魂とはよく言つたものである。
さて、ところであの死の間際の巨大な巨大な巨大なゴキブリの頭を現時点で私なりに解釈を試みると、私に対する自慢、恍惚、憤怒、清澄等等が一緒くたになつた言葉無き昆虫の《思考》の形と看做せなくもないのである。実際のところ、私自身が死ぬ間際にならないと本当のところは解らないが、さてさて、あのゴキブリはしかしながら見事に私の脳裡に巨大な巨大な巨大なゴキブリの頭を刻印して、その存在の証を残すことに成功したのであつたが、私はそれに多少なりとも羨望してゐるのは間違ひない……。
Laser(レーザー)光の悲哀
時折河原を宵闇の中逍遙してゐる時に天空に向かつてLaser光が発振されてゐるのを目にすることがあるが私にはそれがとても切ないのである。
それは何故かと考へるのだが、どうやら人間によつて無理矢理に此の世に出現させられた上に光共振器内で増幅されつつ二枚の鏡の間を何度も何度も往復するといふ、それを例へて言つてみれば合せ鏡の中に突然置かれ二枚の鏡に向かつて全速力で突進し、鏡にぶち当たる度に『定常波』といふ平準化される宿命を負ひ、其処で目にするものと言へば唯唯《己と仲間の哀れな姿》のみであるといふ切なさ、更に言へば光共振器から発振されてからも《直進》することを運命づけられた哀しさ等等、Laser光は哀しさに満ちてゐる。
一度Laser光が発振されると反射、散乱させる物質がその進路に存在しなければ《無限》に向かつて進むことがLaser光の宿命である。その中には一緒に発振させられたが直進することから《脱落》する《仲間の光》の《宿命》さへをも背負ひ続け唯只管に《無限》の彼方に向かつて進まざるを得ない哀しい《宿命》、これは《永劫》に長い直線道路をマラソンする人々に似てゐる。その虚しさは計り知れないのだ。
尤も、この宇宙が閉ぢてゐるとすると一度発振され《脱落》せずに《無限》に向かつて進み続けたLaser光はあはよくば何百億年後かに元の場所に戻つて来る筈であるが、さて、しかし、その時既に発振された場所、つまり、人類も太陽系も此の世から消滅してゐるとすると尚更Laser光は哀しい存在である。さう、一度発振されたLaser光は《永劫》に此の世を《直進》しなければならない何とも何とも哀しい存在なのであるる
またLaser光の一条の閃光が天空に向かつて発振された……。
――底なしの哀しさとは彼らLaser光の為にあるのか……。
そもそも職人の手以外に強制的に人間の愚劣な《便利》のためにある機能を背負はされ此の世に生み出される電化製品等はLaser光のやうに哀しい存在である。その製造段階では金型職人等の何人かの職人は関わるには関わるが、それは極々少数で、例へば徹頭徹尾職人の手になる万年筆や陶磁器などに比べると工場で生産された製品には愛着といふ《魂》が宿らず哀れである。それら工業製品はDesign(デザイン)といふ意匠を仮面の如く付せられるが、その薄つぺらさがまた哀れを誘ふのである。
人工物は職人の職人気質といふ《魂》が籠つてゐなければそもそもが哀しい存在である。
作品名:夢幻空花なる思索の螺旋階段 作家名:積 緋露雪