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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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夢幻空花なる思索の螺旋階段

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衣紋掛けに掛けられた『開いた宇宙』の状態の着物はそれはそれで美しいのであるが、『主(あるじ)』、つまり、『宇宙の主(あるじ)』のゐない着物は詰まる処『もの』でしかないが、『宇宙の主』がその着物を纏つて『閉ぢた宇宙』の状態になると着物を着た女性が存在するだけで世界は一変するのである。そして、着物を着た女性は『美の女神』に変貌するのである。
少なくとも『宇宙』は着物の数だけ『宇宙内』に存在する。つまり、『宇宙』はUniverseではなくMultiverse(物理学での宇宙の中に互いに相互作用するか、するとしても極度に弱くしか相互作用しない別々の領域があるとする、今のところ仮説上の宇宙)である。
即ち、最先端の宇宙論は多神教の世界観といふことである。


影踏み

梨地の型板硝子が嵌め込められた東の窓から満月の皓皓と、しかし、散乱する月光が視界に入つてしまふともうどう仕様もない。これは中学時代に梶井基次郎の「Kの昇天」を読んでしまつたことが原因なのだ。
私はいつものやうに或る小さな川の橋上で影踏みをする為に満月の月光の下、家を出たのであつた。
満月の月光による影は「Kの昇天」で記されてゐるやうに最早影ではなく「生物」若しくは「見えるもの」である……。
その影踏みはいつもこんな風である。「Kの昇天」にあるやうに影踏みは満月が南中する時刻、つまり影が一番短い時刻に限るのである。それまでの間は私は川面に映る満月をじつと視続けながら《時間》といふものに思ひを馳せるのが常であつた。
――川は流れ……水鏡に映る満月は流れず……。私もまたこの水鏡に映る満月のやうに《時間》の流れに乗れずに絶えず《時間》に置いて行かれる宿命か……。《存在》する以上《時間》の流れに乗れないのは、さて、《自然の摂理》なのか……。
…………
…………
――物理量としての《時間》、そこには勿論、itcと表はされる《虚時間》も含めてdtとして微分可能なものとして現はれる物理量としての《時間》は、さて、一次元構造ではなく……もしかすると∞次元として表はされるべき《物理量》ではないのか……すると、ふつ、物理学は最早物理学ではなくなつてしまふか……。
…………
…………
――《時間》の流れに見事乗りおおせた《もの》は恒常に《現在》、つまり、《永遠》を掌中にするのだらうか……。つまり、《瞬間》を《無限》に引き伸ばしたものが《永遠》ではなく……恒常に《現在》であることが《永遠》の定義ではないのか……。しかし……恒常に《現在》であるものにも《個時空》は存在し……《永遠》を目にする前に《自己崩壊》する《運命》なのか……。
等と湧いては不意に消え行く思念の数々。この思念の湧くがままの《時間》こそ私の至福の《時間》なのであつた。
さて、満月が南中に達する頃、私は手には必ず小石を持つて徐に立ち上がる。そして、橋上の真ん中に位置すると私は私の影を暫くじつと凝視し影が《影》でなくなる瞬間に手にした小石をその《影》の顔目掛けて投げつけるのであつた。
これが影踏みを始めるにあたつての私流の儀式なのである。石礫を私に投げつけられた《私》の胸中に湧いてくる何とも名状し難い哀しい感情のまま、私は右足から影踏みを始めるのである。その《時間》は哀しい自己問答の時間で、「Kの昇天」のやうな陶酔の《時間》では決してなかつたが、私は今もつて満月下の影踏みは止められないのである。
――《吾》、何者ぞ、否、《何》が《吾》か。
――ふつ、豈図らんや、そもそも《吾》、夢幻なりや……


考へる《水》 参 ‐ 『神輿、また、文楽』

この極東の日本では神が御旅所等へ渡御する途中に一時的に鎮まる輿を《神輿》と名付けてゐて、それは人間、特に氏子が《担ぐ》ことで《神》は《神》として《在る》のである。
西欧などの一神教の世界観では《神》は天上の玉座から一歩なりとも動かず、まるで《糸》を地上に垂らして《人間》をその《糸》で《操る》が如くであるのに対して、この極東の日本では《神》はこの地上に舞ひ降りて《人間》と《対等》の《位置》に鎮座ましまするのである。
一例であるが西欧ではMarionette(マリオネツト)、つまり糸操り人形があるが、これは《人間》が上部で下部の《人形》を糸で《操る》のである。
これだけでもこの極東の日本と西欧では《神》の居場所が全く異なり、つまり、その世界観の《秩序》が全く異なつてゐるのである。
さて、神輿によく見られる左三つ巴の紋様は《渦》紋様の一つであるが、仮に此の世が右手系であるならば右螺旋(ねじ)の法則の如く天から、或ひは森羅万象から注がれる《神力》が左三つ巴紋を通して神輿に《輻輳》し神輿の担ぎ手並びに此の世の衆生全てにその《輻輳》した《神力》が遍く振り撒かれることになるのである。
即ち、この極東の日本では《神々》は衆生の中に何時でも《居られる》のである。
別の例でいふと三位一体といふものがある。西欧などの一神教の三位一体は《父と子と聖霊》といふ、其処にはどうしても抗ひ切れない《縦関係》が見て取れてしまひ、それが一神教における《絶対》の《秩序》であるが、この極東の日本で三位一体と言へば文楽の太夫、三味線、そして人形遣ひの《三業》による三位一体が思ひ起こされるが、さて、ここで文楽の人形を《神》に見立てるとこの極東の日本の世界観が俄に瞭然となるのである。
ところで、出来映えこの上ない極上の文楽を観賞してゐると太棹の三味線の音色若しくは響きと太夫の浄瑠璃語りと人形遣ひの妙技による人形の動きが見事に《統一》若しくは《統合》された《完璧》この上ない《宇宙》が浄瑠璃の舞台に現れるのである。勿論、観客も《一体》となつたその《宇宙》は《極楽》に違ひないのである。
それはまさしく漣一つない水面に一滴の雫が落ち、誠に美しい《波紋》がその水面に拡がるが如しの唯一無二の完璧な《宇宙》が此の世に出現するのである。それはそれは見事この上ない世界である。


時計

私の部屋には電池を交換するとき以外一時も休むことなく《渦》を巻き続けてゐるものがある。さう、長針、短針、そして秒針があるAnalog(アナログ)の時計である。この時計とはもう二十数年来の付き合ひである。当然、この時計も一度は私の手で分解され再び組み立てられた代物である。私は幼少時より時計も含めておもちやの類やちよつとした機械は必ず分解してみないと気が済まない性分なのである。これは如何ともし難く、しかし、それでゐて殆どが再び組み立てられずに唯のがらくたに成り下がつたもの多数である。それでも分解は止められないのであるが、最近は電子基盤に電子部品が何やら地図のやうに貼り付けられた電子機械ばかりで分解の仕様もなく、私にとつて機械のBlack box(ブラつクボつクス)化は誠に欲求不満を募らせるどう仕様もない唯の《物体》でしかなく、其処に愛着といふ《魂》が全く宿らない代物なのである。