夢幻空花なる思索の螺旋階段
人の死相と星の死相がそつくりなのは至極当然であらう。何しろ人間といふより生き物は全て宇宙に存在してゐる物質で出来てゐるのだからその死が生き物と星でそつくりなのは当たり前なのである。
――さて、そこで、星々もまた思考し夢を見るのであらうか?
――当然だ。此の世の全ての存在は思考し《他》にならうと夢を見る!
πの誘(いざな)ひ
彼の口癖はかうであつた。
――超越数の一つとしても知られてゐる円周率πの値が確定された時、『宇宙』は無限を獲得する。つまり、それは、へつ、『宇宙の死』さ。
更に彼は斯く語りき。
――人類は円周率をπとして『象徴記号』に封印したことで『生の世界』と『死の世界』を無理矢理にでも跨ぎ果(おお)せなければならない奇妙奇天烈な生き物へと変貌させられたのだ。
吾、其れを彼に何故だと問ふ。
――なにゆゑに貴君は斯くの如く断言せしむるや。
彼、斯くの如く答ふる。
――それでは貴君に問ふ。此の世に直線は存するや。
吾、斯くの如く答ふる。
――存在するに能はず。然れども数学世界ではπは存在し得る。
彼、更に斯くの如く問ふ。
――さすれば貴君の言ふ数学世界は『死の世界』の総称か ?
吾、彼に斯くの如く問ふ。
――なにゆゑ貴君は数学を『死の世界』と定義するや。
彼、にやりと僅かに嘲笑し、斯くの如く答ふる。
――ふつ、笑止千万。貴君、先に此の世に直線は存在するに能はずと答ふる。
然れども数学ではπは存すると語りき。この矛盾、如何せん。
――うむ。如何ともせん。さすれば貴君はなにゆゑ数学を『死の世界』と断言するや。
――古人(いにしへびと)とは直感的に円周率に『生』と『死』を跨ぐ《橋》の形をしたπといふギリシア文字を当てた。勿論、数学は『生』の学問ではあるが、しかし、此の世は『生』のみに非ず。『生』と『死』は切つても切れぬ縁(えにし)で結ばれし。『生』有れば必ず『死』有り、『死』有れば必ず『生』有り。はつ、人間は数学的に無限といふ概念を抱へてしまつた刹那、数学は『死』をも掌中にせねばならぬ『宿命』を負つてしまつたのだ。
――さすれば……
――さすれば、『無限遠』を中心とした円周が……即ち、直線だ。その刹那、『宇宙』は死滅し、死滅した『宇宙』は『∞』を獲得す。そして、πの値も確定す。そして、何も存せぬ『死』有るのみ……
――貴君に問ふ。なにゆゑ数学に『死』が有るや。
――ふつ、簡単だ。『生』を突き詰めれば、これは人類が背負つた『宿命』だが、とことん突き詰めねば気が済まぬ人類が『生』を突き詰めれば『死』に至るのは必然だ。そして……、『生』と『死』が対を成さぬ『もの』は全て之まやかしだ。……はつ、つまり、此の世に存在する全てのものは誕生した刹那、『死』に片足を突つ込んでゐるのさ。一休 宗純(いつきう そうじゆん、応永元年1月1日(1394年2月1日) - 文明13年11月21日(1481年12月12日))斯く語りき。
『門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし』(狂雲集)
蝋燭
――ゆあゆあ……ゆあ……ゆあゆあゆあ……じつじつじー……ぽつぽつぽ……
飛んで燈にいる夏の虫。何処からともなく此方に飛んできてゆるりゆるりと眼前の和蝋燭の燈の周りを渦を巻くように何回か巡り小さな羽虫が和蝋燭の炎に焼かれた……。
――ゆあ……ぽつ……ゆあゆあゆあ……
複眼を持つ昆虫は光線に対して直角に進むやうに『仕組まれて』ゐるので和蝋燭の炎に飛び込み焼け死んだあの小さな羽虫は『直進』してゐたにも拘はず『渦』を描いてゐた。
――あの小さな羽虫もまた和蝋燭の燈に魅せられてしまつたのか……
――ゆあゆあゆあ……ゆあゆあゆあゆあ……ぽつ……
不意に眼前の和蝋燭の炎が揺れた。
――揺らめく……揺らめく……世界が……揺らめく……
眼前の和蝋燭の炎を中心とした『渦時空間』に死者たちの魂もまた魅せられてその和蝋燭の炎の周りを巡つてゐるのか……。
――ゆあゆあ……ぽつぽつぽつぽつ……ゆあゆあゆあゆあ……
陰翳が絶えず移ろふこの『渦時空間』こそ、死者たちの祝祭の場……。
――眼前の和蝋燭の炎は吾の命の『炎』なのか……死者共が吾の『炎』を酒の肴に喰らつてゐるではないか……
この和蝋燭の炎の『ゆあゆあゆあ』といふ揺らめく輝きは死者共の哄笑で満ちてゐる憩ひの場。そして、また、吾も清浄なる死者共の祝祭に招かれし。
――わつはつは。
死者と戯れしこの無上の時間。そして……終焉の時。
――ふうつ。
吾は己の命の『炎』を自ら吹き消したのだ。
――何なのだらう、この静謐なる心地よさは……
闇の中、吾の網膜に残る和蝋燭の炎の残像を吾は己の命を慈しむやうにずうつとずうつと眺め続けてゐたのであつた。
――吾、未だ、苟も生かされてしまつてゐるのか。祝祭だ、祝祭だ、吾の生に乾杯!
蟷螂(かまきり)
私は幼少時から昆虫を異常な程偏愛してゐるが、中でも黒蟻と蟷螂への偏愛は特別である。黒蟻はその巣の出入り口を一日中でも見続けてゐられる程であるが、黒蟻についてはまたの機会に譲る。
蟷螂は冬に芒等の枯れた茎に蟷螂の卵(らん)鞘(せう)を見つけるとそれを茎ごと家に持ち帰つて日一日とその卵鞘から蟷螂の幼虫がうようよ出てくるのを待つのが楽しみであつた。
また、初秋以外は自然の中にゐる蟷螂をじつと見続けてゐるだけで何とも言へない幸福感に包まれるのであつた。
問題は産卵期が近づいた初秋の蟷螂で、私は蟷螂を見つけると雄雌区別なく竹製の籠――Plastic(プラスティつク)は幼少時から嫌いである。それはある日風呂に入るとそれまで木製だつた桶等が全てPlastic製品に変はつてゐてそのPlastic製品を手にした瞬間の嫌悪感が未だに克服できないのである――に入れ空かさず蟋蟀等の蟷螂の餌を捕まへて蟷螂に喰はせるのである。その様をずつと見てゐるのがこれまた名状し難い幸福な時間なのである。
蟷螂は蟋蟀を鎌で確りと摑み先づ蟋蟀の頭に武者ぶり付き脳を喰らつた後に動けなくなつた蟋蟀の腹に喰らひ付く。その喰ひつぷりがこれまた何とも名状し難い程素晴らしいのである。今思ふとそれは後年『生』と『死』について思索するといふ陥穽へと陥ることになる予兆であつたのかもしれない……。
それはそれとして、蟷螂が見事な喰ひつぷりで蟋蟀を一匹喰ひ終はると二匹目を蟷螂に喰はせ蟷螂が満腹になつて喰ひ残した蟋蟀を鎌から放り投げるまで続けるのであつた。そして、満腹になつた蟷螂を捕まへた場所に戻し、私は名状し難い幸福感に包まれて其の日を終へるのであつた。何も私は死体嗜好者ではないが蟷螂だけは別物なのである。
それは或る秋の日のことであつた。不意に道端に繁茂する雑草に目を向けると雄と雌の蟷螂が交尾してゐるのを目撃してしまつたのである。最早私は蟷螂の交尾を凝視し続けるしかないのである。
それは不意に起こつたのである。雌蟷螂が突然雄蟷螂の首を噛み切り首を落としたのである。依然として交尾は続いてゐた。そして、交尾が終はると雌蟷螂は雄の腹に喰ひつきその首がなく唯痙攣したやうに反射運動をしてゐるだけの、不自然に脚をばたつかせてゐた雄蟷螂を一匹丸々喰らつたのであつた……。
作品名:夢幻空花なる思索の螺旋階段 作家名:積 緋露雪