夢幻空花なる思索の螺旋階段
滅び――現代は『普遍』といふ概念がすつぽりと抜け落ちた『諸行無常』――それは中身が空つぽな概念に思ふ――を自明の事としてしか物事を考へない、つまり数にすれば圧倒的多数である『死者』とこれから生まれてくるであらう未出現の『未来人』の事は一切無視した現在『生存』してゐる人間の事しか考へない『狭量』な『諸行無常』といふ考へに支配された世界認識しか出来ないのではなからうか。
少なくとも千年は生き残る『もの』を現代社会は創造しないと人類の『恥』でしかないやうに思ふ今日この頃である。
孤独、ニュートリノの如く
『物体』をほぼ全て透過してしまふNeutrino(ニゆトリノ)の『孤独』の深さは多分底無しであらう。
『他』にぶち当たつて『衝突』や『反射』しない『他』の存在しないNeutrinoの『自己認識』の術は、さて、何であらうか。果たしてNeutrinoは自己が此の世に存在してゐることを『認識』してゐるのであらうか……
――……吾、果たしてこの吾、此の世に《存在》してゐるの……か……
――お前は今、お前を《吾》と言つたが……お前が己を《吾》といふその存在根拠は何かな?
――……《吾》たる根拠は……何も……無い……
――それではお前に尋ねるが……お前の仲間の極々少数の者が『素粒子』に打つかつて微小な微小な仄かな蒼白き『光』を発光して『死んで』いくが……さて……その時以外お前が《吾》が《吾》であつたと『自己認識』出来る瞬間は……無いのではないかな……するとだ、お前は『死』以外……己の存在を『認識』することが出来ない……此の世で最も『哀れ』な存在……
――否! Neutrino振動を知つてゐるな。《吾》は《吾》であるといふ『自同律の不快』によつて《吾》は《吾》とは《異種》の《吾》に変容する……
――はつ。お前でさへ……《吾》なることを……《吾》なることの《底無しの苦悩》を知つてゐるとすると……『自己変容』のみ此の世に『存在』させられた『もの』全ての此の世での慰めか……
――はつ、馬鹿が。『自己変容』? 何を甘つちよろいことをぬかしてをるか……『死』のみ此の世に『存在』させられた『もの』全ての慰めさ、はつ。
――『死』が慰め? これは異なことを言ふ。『死』が此の世の全ての『もの』の慰めならばだ、全ての『もの』はとつくに自ら命を絶つて絶滅してゐる筈だがな。
――へつ。吾にとつて『死』以外、何が残つてゐるのだ! Neutrino振動で《異種》の《吾》に《変容》した《吾》をして《吾、此処にあり》なんぞ、馬鹿げた雄叫びでも上げて自慰するのか、へつ、それこそ馬鹿のすることさ。『死』をもつて《吾》は慰みとする、へつ。
――はつ、それがいい。《吾》が《吾》でしかあり得ないことの不愉快極まりない《存在》へのこの侮蔑は、さて、『死』をもつて復讐するのが一番さ、へつ。
――はつはつはつ、例へば此の世に『死』がなければ《吾》はそもそも《存在》出来るのか……。ちぇつ。
考へる《水》 壱 ‐ 『星の死、または死相』
《人間は考えへる葦である》といふ箴言で人口に膾炙してゐるフランスの数学者、物理学者、哲学者、思想家、宗教家であるブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623年6月19日 - 1662年8月19日)が、晩年に、ある書物を構想しつつ書き綴つた断片的なNoteを、彼の死後に編纂して刊行した遺著『パンセ』【筑摩書房:「世界文学全集11モンテーニゆ/パスカル集」(昭和四十五年十一月一日発行)より松浪 信三郎訳】から抜粋(一部私が改変)
第六篇より
三百四十六
思考が人間の偉大をなす。
三百四十七
人間は自然のうちで最も弱いひとくきの葦にすぎない。しかしそれは考へる葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしづくも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶすときにも、人間は、人間を殺すよりもいつそう高貴であるであらう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知つてをり、宇宙が人間の上に優越することを知つてゐるからである。宇宙はそれについては何も知らない。
それゆゑ、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであつて、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。それゆゑ、われわれはよく考へるやうにつとめやう。そこに道徳の根原がある。
三百四十八
考へる葦。――私が私の尊厳を求めるべきは、空間に関してではなく、私の思考の規定に関してである。いかに多くの土地を領有したとしても、私は私以上に大きくはなれないであらう。空間によつて、宇宙は私を包み、一つの点として私を呑む。思考によつて、私は宇宙を包む。
三百四十九
霊魂の非物質性。――自己の情念を制御した哲学者たちよ、いかなる物質がそれをよく為しえたであらうか?
――以下略
さて、人体の構成を分子Levelで言へば《水》がほぼ七割を占めるので、パスカルの《人間は考へる葦である》を更に推し進め私流にすると《人間は考へる水である》となる。
つまり、《水》が生物の存在を許さなければ生物は此の世に存在出来ないのである。
ところで、《水》がその存在を『許容』しない物質は此の世に存在するのであらうか。つまり、《水》は全てを、《神》の如く、《受容》するのであらうか。
閑話休題。
突然であるが、私は他人の、そして動物の死相が見える。「虫の知らせ」等といふ言葉があるので死相が見えることは別段不思議なことだとは考へてゐないが、しかし、他人の死相が見えてしまふことは何とも遣り切れないものである。経験則に過ぎないが、私に死相が見えてしまつた人はどんな医学的な治療をしても三年以内には必ず死ぬのである。
先づ、眼光から《生気》が消えると言へば良いのか、死に行く人の眼光は異様に見えるのである……。
そして、他人の死相は死に行く星の様相とそつくりなのである。
例へば、「SN 1987A、即ち超新星1987A」、「エーターカリーナ星」、「エつグ星雲」、「リング星雲」等等と他人の死相は似てゐるのである……。
閑話休題。
星はその最後には星の中心核内にある全てのHelium(ヘリウム)を使ひ切り、次に何が起こるのかはその星の質量によつて変はるのであるが、最も重い星、太陽質量の6~8倍以上の質量を持つ星は、十分な圧力が核内にあるため、核融合で炭素原子を燃やし始め、炭素が無くなると超新星として爆発し中性子星やBlack hole(ブラつクホール)が後に残る。軽い星は燃え尽きながら外層を噴き出して美しい惑星状星雲を作る。中心核は高温の白色矮星として残る。
星の死後残つた中性子星やBlack holeや白色矮星は人で言へば『霊魂』である、と、私は考へてゐるが、つまり、パスカルと同じく『霊魂』は存在すると考へてゐるのである。といふのも人間の構成は宇宙の構成と原子Levelでは似てゐて『人体』を『宇宙』に喩へるのは極々一般的な考へ方であるからである。
作品名:夢幻空花なる思索の螺旋階段 作家名:積 緋露雪