夢幻空花なる思索の螺旋階段
だが、二枚の鏡をゆつくりと互ひに近づけて行き、最後に二枚の鏡をぴたつと合はせてしまふと、さて、二枚の鏡に映つてゐる闇の深さは『無限』ではないのではなからうか。
――眼前に『無限』の闇が出現したぜ。
眼前のぴたつと合はせられた二枚の鏡の薄い薄い時空間に『無限』の闇が出現する……
――其の名は何ぞ
――無限……
――無限? ふむ……。其に問う、『此の世に《無限》は存在するのか?』
――ふむ。存在してゐると貴君が思へば、吾、此の世に存在す。しかし、貴君が存在してゐないと思へば、吾、存在せず……
――すると、己次第といふことか……これじやあ唯識の世界と同じだな……
さて、瞼を閉ぢてみる。
――眼前の薄つぺらい瞼の影もまた『無限』の闇か……
すると、闇は闇自体既に『無限』といふことになる。
――光無き漆黒の闇の中には無数の『存在』が隠れてゐる……か……
さうである。闇は何物にも変幻自在に変容し吾の思ふが儘に闇はその姿を変へる。
――何たる事か!
――へつ。吾、闇は、水の如し……だぜ。
――するとだ、其はその薄つぺらい薄つぺらい闇自体に全存在を隠し持つてゐる、へつ、例へば創造主か……
――……
――神、其れは『闇』の異名か……、ちぇつ。
私は其の瞬間、眼前の二枚の鏡を床に擲ち、粉々に割れた鏡の欠片に映る世界の景色をじつと何時までも眺め続けたまま一歩も動けなかつたのであつた……。
五蘊場(ごうんば)
*****************************************************************
広辞苑より
五蘊
(梵語skandha)現象界の存在の五種類。色(しき)・受・想・行(ぎやう)・識の総称で、物質と精神との諸要素を収める。色は物質及び肉体、受は感覚・知覚、想は概念構成、行は意志・記憶など、識は純粋意識、蘊は集合体の意。
*****************************************************************
場
場とは、物理量を持つものの存在が別の場所にある他のものに影響を与へること、あるひはその影響を受けてゐる状態にある空間のことをいふ。
*****************************************************************
ストークスの定理
ここで S は積分範囲の面、C はその境界の曲線である。
*****************************************************************
頭蓋内といふものは考へれば考へる程不思議な時空間に思へてならない。
例へば何かを思考する時、私は脳自体を認識することなく『思考』する。これは摩訶不思議な現象であるやうに思へてならない。
さて、『脳』とは一体何なのか?
『脳』のみ蟹や海老等の甲殻類の如く頭蓋骨内にあり、手や足などの肉体とは違ひ、思考してゐる時、『脳』を意識したところで漠然と『脳』の何々野の辺りが活動してゐるかなとぐらゐしか解らず――それも脳科学者が言つてゐることの『知識』をなぞつてゐるに過ぎないが――私には『脳』の活動と『思考』がはつきり言つて全く結び付かないのである。これは困つたことで、『脳』の活動と『思考』することが理路整然と結び付かない限り何時まで経つても霊魂の問題は、つまりOccult(オカルト)は幾ら科学が発展しやうが消えることはなく、寧ろ科学が発展すればするほどOccultは衆人の間で『真実』として語られるに違ひないのである。
そこで上記に記したストークスの定理をHintに頭蓋内を『五蘊場』といふ物理学風な『場』と看做して何とか私の内部で『脳』の活動と『思考』を無理矢理結び付けやうとしなければ私は居心地が悪いのである。全くどうしやうもない性分である……。
例へば一本の銅線に電流が流れると銅線の周辺には電磁場が生じる。そこで脳細胞に微弱な電流が流れると『場』が発生すると仮定しその『場』を『五蘊場』と名付けると何となく頭蓋内が解つたかのやうな気になるから面白い。
『脳』が活動すると頭蓋内には『五蘊場』が発生する。それ故『人間』は『五蘊』の存在へと統合され何となく『心』自体へ触れたやうな気分になるから不思議である。
多分、『脳』とは『場』の発生装置で『脳自体』が『思考』するのではなく『脳』が活動することによつて発生する『五蘊場』で『人間』は『思考』する。
さて、ここで妄想を膨らませると、世界とか宇宙とか呼ばれてゐる此の世を『神』の『脳』が活動することによつて発生した『神』の『五蘊場』だとすると科学の『場』の概念と宗教が統一され、さて、『大大大大統一場の理論』が確立出来るのではないかと思へてくる……
――宇宙もまた『意識』を持つ存在だとすると……
――さう、宇宙もまた『夢』を見る……
――その『夢』と『現実』の乖離がこの宇宙を『未来』に向かせる原動力だとすると……
――『諸行無常』が此の世の摂理だ!
玄武……幻想……
四象若しくは四神の北を指す玄武の図柄は、特にキトラ古墳の石室に描かれた玄武の写真を見ると様様な妄想を掻き立てるのである。
一方で玄武に似た『象徴』にギリシアの自らの尾を噛んで『無限』を象徴するウロボロスの蛇があるが差し詰め現代社会を象徴する蛇を図案化すると自らの尾から自らを喰らひ始め、自滅を始めた『蛇』、つまり現代を考えるとき必ず人類の絶滅といふことが頭を過ぎつてしまふのである。
閑話休題。
玄武――その『玄』の字から黒を表はすのは直ぐに想像出来る。黒から『夜』へと想像するのは余りに単純だが、思ふに玄武は『北の夜空』の象徴ではないのかと仮定出来る。
さて、キトラ古墳の玄武の蛇はウロボロスの蛇のやうに自らの尾を噛んではをらず、尾が鉤状になつて蛇の首に絡んだ格好になつてゐるが、これは正に北の夜空の星の運行を端的に表はし、現代風に言へば『円環』若しくはニーチェの『永劫回帰』すらをもそこには含んでゐるやうにも思ふ。日本の古代の人々は蛇が『脱皮』を繰り返すことから『不死』若しくは『永久(とは)』を表はし、また『龍』の化身、更には『水神』をも表はしてゐたらしいので、多分、北極星を象徴してゐるであらう『亀』と併せて考へると玄武は『脱皮』をしながら、つまり『諸行無常』といふ『異質』の概念を敢へて飲み込んだ『恒常普遍』といふ概念が既に考へ出されてゐたと仮定できるのである。更に何処の国の神話かは忘れてしまつたが、世界を『支へる』ものとして『亀』が考へられてゐたことも含めると玄武は今もつて『普遍』へとその妄想を掻き立てる現在も『生きてゐる』神である。
少なくともキトラ古墳の玄武は千数百年生き続けてゐたのは確かで、さて、現代社会で千年単位で物事が考へられてゐるかといふと皆無に近いといふのが実情ではないかと思ふ。
作品名:夢幻空花なる思索の螺旋階段 作家名:積 緋露雪