Cloak
それまで笑っていた礼子は、糸が切れたように真顔に戻った。同時に、お箸の音、笑い声、食器がぶつかる音、全部が消えた。睨めっこをしているような形になり、わたしは思わず目を逸らせた。
食卓につく全員が、わたしの方を見ている。ひと言も発することなく、まるで目の前に料理などないかのように。手の中で湯呑みがぐらぐらと揺れた。落とすと割ってしまう。家を出る前の後悔がふと、頭に蘇った。ヒビを入れてしまった、お気に入りの湯呑み。今度は、絶対に割らない。わたしはできるだけ丁寧に、テーブルの上へ置いた。光が跳ね返ったとき、細い線が縦に入っていることに気づいた。
これは、あの湯呑みだ。
新しいものを買わないんじゃない。何か理由があって、買えないのだ。わたしは座っていられなくなって、思わずよろめいた。隣にいたはずの礼子は立ち上がっていて、母が絞り出すような声で言った。
「わたしらの代で、こんなことになりよるとはねえ」
どういう意味なのか、母に聞きたかった。でも、体すらうまく動かない。わたしは横になって、湯呑みを見上げた。数時間眠ったばかりなのに、眠い。あのゆず茶に、何か入っていたのだろうか。人影が少しずつ頭上を覆って、明るい部屋のはずなのに夜中みたいになった。腕に、何かが群がっている。
「これやったら、いけるやろう」
父の声だった。
真っ暗な部屋。意識が飛んでいたことに気づいたのは、壁にかかっている時計が覚えている時間より一時間ほど進んでいたからだった。母の言葉が、ついさっき聞いたばかりのように耳に残っている。一体、どんなことになったのだろう。いや、そうじゃないかもしれない。ずっと、とんでもないことになっていたのかも。
「姉ちゃん……?」
頭上から大きな影が覆いかぶさっていて、ひときわ暗く見えた。わたしは首を回そうとしたけど、うまく体が動かなかった。体が重いだけじゃない。明らかに立ち上がれないし、足にも何かが絡みついている。
「三橋舞衣子殿」
暗闇の中から、籠った声が聞こえた。
「この度は、我が家の勝手な都合に身を捧げていただき、若い御身のことを考えると、 心痛の極みであります」
目が慣れるにつれて、話しているのが一条家の父だと、ようやく気づいた。同じセーターを着ていて、その顔は暗い。
「三橋家のご理解に、心より感謝申し上げる次第であります」
一条家の父はそう言うと、部屋の隅に正座して、同じように正座する妻と一度顔を見合わせた。わたしは視線を泳がせた。父と母は、わたしに土下座をするように顔を伏せている。礼子がいない。
「……、何? 姉ちゃん、どこ?」
わたしが可能な限り声を張り上げると、真横で声がした。
「では、準備を始めますので。皆さんどうぞ、お戻りになってください」
一条家の二人と、その隣に座る二宮智則とその母が立ち上がった。礼子は、全員が一階に下りていった後、まだ残っているお父さんとお母さんに言った。
「舞衣子と話したいんやけど、いいかな?」
二人が他人事のように下りていき、真っ暗な部屋の中にいるのは、礼子とわたしだけになった。
「姉ちゃん、どうなっとるん?」
わたしが言うと、礼子は常夜灯だけを点けた。暗いオレンジ色に照らされる部屋の中で、姿見を引きずってくると、わたしの目の前に立てた。
「ずっと思っとったよ。似合うって」
鏡の中のわたし。ずっと頭上に見えていた、暗い影の正体が分かった。
わたしは、白無垢の中にいる。
七尾家で見た光景が頭の中で繋がった。冥婚だなんて、ずいぶん勝手なことをするものだなと、他人事のように思っていた。
「誰と?」
わたしが呟くと、礼子の顔が少し明るくなった。冥婚のことを知っているとは、思っていなかったのかもしれない。当然と言えば、当然だ。わたしだって、知ったのは数時間前なのだから。礼子は言った。
「一条和樹よ。さっき、お父さん喋っとったやろ」
亡くなったのは、もう何年も前だ。そう言おうとしたけど、からからに乾いた喉が鳴っただけだった。一条和樹の遺影を反対側に立てると、礼子は言った。
「明るくしとったら、いつまでも連れて行ってくれへんのよ。分かるやろ?」
「分かるわけない、何を言うてんの? 連れて行くって、何?」
わたしが掠れた声で言うと、礼子は、手に持った南京錠のシャックルを指で回しながら、肩をすくめた。
「まずは、連れて行きたい人がおらなあかん。遠いところにおるから、すぐには来られへん。やから、こっちは部屋を暗くして、来てもらうまでずっと待つんよ」
部屋の中ばかりが気になっていて、ずっと気づかなかった。わたしは開かずの間の中にいる。目の前で南京錠を片手に澱みなく話しているのは、わたしが知っているのと同じ、あの礼子なのだろうか。声は同じなのに、その澄ました表情は他人のように遠い。
「ずっと、連絡くれてたのは、こうしたかったからなん?」
集落を出てから数年、仕事がつらいときも、楽しかった日のことも、礼子は全部聞いてくれた。わたしがどんな生活をしているかは、もしかしたらわたしよりも礼子の方が掴めているんじゃないかって、言えるぐらいに。
「ごめん、舞衣子。うちらも、もう限界なんよ」
「ほんまに分からん、何が?」
言いながら、自分の背中が壁と触れていることに気づいた。後ろには逃げられない。それに、床に都合よく鋏が落ちていたり、そんなことはあり得ない。今置かれた状況を利用するしか、手はない。そこまで考えたとき、ふと気づいた。今のわたしと同じように、この集落の人間は誰も、新しいものを買っていない。
わたしがお年玉をもらえなかった年は、その数か月前に五頭恭一が亡くなっている。そして、七尾家にあった空っぽの白無垢。頭の中で、驚くほどまっすぐな線で何かが繋がっていた。
「冥婚が済むまで、新しい物を買えんの?」
礼子はわたしの顔を見ると、ゆっくりとうなずいた。やがて、その顔が真っ二つに割れるのではないかと思うぐらいに歪み、目の前に迫った。
「あんたがおらんなって、家がどんだけ大変やったか。わたしが智則と結婚せんかったら、うちらは八田送りになるとこやったんよ」
集落でしか通用しない『用語』を聞いたとき、頭に血が上るのを感じた。わたしは礼子を跳ね返すように顔を突き出して、言った。
「そういうの、どれだけ異常か分かってる? 八田さんとこも、うちらと同じ人間やんか。わたしをどうするつもりなんよ」
一階で声がざわつきだして、礼子は視線を逸らせた。わたしが注意を引こうとして体を力任せに揺すると、礼子はわたしの方に向き直った。
「連れてってもらうよ。相思相愛やないとあかんから、あんたにはずっと、ここにおってもらう。連れて行ってほしいって思うまで。そうやって、魂を抜いてもらわな、終わらんのよ。お母さんが若いときに、二宮家と五頭家の間でも同じことがあったんやって」
母がよく嘆いていた不運は、このことだったのだ。自分の代で娘が選ばれるとは思っていなかったのだろう。わたしは言った。
「七尾家と五頭家も、それでくっつく予定やったんやろ。でも七尾の家に、白無垢があったで。あれは中止になったん?」