審問官第二章「杳体」
――御免なさい。また泣いてしまって。でも、あなたは、己の《存在》を最期は全肯定する可能性は全く零だと看做してゐるのかしら?
――多分、「黙狂者」にも、それは、解からぬ筈だ。唯、「黙狂者」は、日日、命を削って何とか生きてゐるのは間違ひない。
と、文学青年で、色白の丁君が、相変はらずさう言った自分が許せぬ何かのやうに、苦虫を潰したやうに顔を奇妙に歪めながら、歯切れ悪くもさう言ひ切ったのでした。
――へっ、今日もまた、議論の中心は此の口の利けない「黙狂者」か――。
ヴァン・ゴッホ気狂ひの甲君が皮肉を込めて言ったのであった。
――しかし、「黙狂者」が掲げた《杳体》がどう深化を遂げるのかは、興味のある事だぜ。
と、猊下たる丙君が、天井を見上げながら言ったのであった。
――ねえ、率直に訊くわね。あなたは自分の子が欲しくないの?
といまもぽろぽろと涙を流しながら、多分、雪の内面では男に凌辱された悪夢に腸(はらわた)が煮えくりながらも、雪は私に或る希望のやうな《もの》が見出せるかもしれないといふ、藁をも縋る思ひで私の後に付いて来て、此の喫茶店迄やって来たのは、私にも痛いほど解かるのであったが、これは、しかし、時間が解決するのをぢっと待つしかない問題でもあると、私は心の何処かで達観してゐたのは間違ひない事であった。多分に、その私の振舞ひが、雪を苛苛させてゐたのもまた確かな事であった。
――つまり、それは、私にとっては、つまり、どちらでも、つまり、構はぬ事なのさ。
――それでは、あなたは、唯、此の世に反旗を翻すのみの自己満足だけに生きるといふ事なの?
――さう。自己満足だ。つまり、私は、つまり、現在、つまり、自己満足が何としても希求されるべき《もの》だ。つまり、現時点では、つまり、私には、つまり、さうとしか言へないのだ。
――あなたは、直言しますが、未来の《存在》を信じてゐるのですか? それと、あなたは《存在革命》などといふ夢想に耽溺して己の遣り切れない魂の捌け口にしてゐませんか?
――……否。つまり、自発的に、つまり、《存在》の変容が切迫してゐなければ、つまり、《存在革命》なんてありもしない、つまり、虚妄、つまり、でしかない。つまり、自然や、つまり、環境や、つまり、世界、つまり、と呼ばれている、つまり、外界が、つまり、《存在》を、つまり、世界の変動に、つまり、順応するべく《存在》する、つまり、《存在》は、つまり、たったそれだけの、つまり、理由で、つまり、絶えず、つまり、変容する事を、つまり、強要されてゐる。
――だが、真似ぶ事で、《存在》する《もの》は、精神をRelayしてやしないかい?
と猊下たる丙君が、まだ天上を見詰めながら言ったのであった。
――ねえ、そもそも《存在》が変容する事は、悪なのかしら?
――つまり、現時点では、つまり、変容は、つまり、或る《存在》の、つまり、有様の変貌を、つまり、意味してゐて、つまり、また、つまり、現在、つまり、《存在》してゐる《もの》から、つまり、突然変異でも、つまり、何でもいいから、つまり、《新=存在》の、つまり、出現が、つまり、待望されている[HS1]。
――でも、それは、メシアの待望と何が違うのかしら? 此の世の摂理として、此の世に《存在》してしまった《もの》は、その摂理を甘受すべきなのが道理ではないのかしら?
――否。つまり、甘受すべき、つまり、摂理といふ《もの》は、つまり、即座に、摂理に抗ふ事、つまり、主体は、つまり、摂理を唾棄する《もの》と、つまり、痩せ我慢してでも、つまり、その摂理とやらに、つまり、抗ふ事で、つまり、正覚出来てしまふかもしれぬし、つまり、或るひは、自然との同化によって、つまり、柳に風の如く、つまり、自然と調和すると、自在なる自我の境地が、つまり、得られるかもしれぬ。つまり、どちらにせよ、つまり、《存在》の変容は、つまり、自発的に起る事は、つまり、不可能なのさ。つまり、不可能故に、つまり、主体は、敢へて此の世の摂理に抗ひ、つまり、それでも、つまり、《存在》は自発的なる《存在の変革》を為すべく、つまり、日日奮闘してゐる。つまり、それが、つまり、大きな意味で、つまり、己の為なのさ。つまり、何故って、《存在》は、つまり、此の世の摂理を含めて、《存在》そのものが、つまり大いに反吐が出る程不快だからさ。
――それでこそ、《杳体御仁》が《杳体御仁》たる所以だな、「黙狂者」君!
と、此処で再び甲君が茶茶を入れたのであった。
――それよ。あなたの《杳体御仁》といふ綽名は、あなたが私には未だに理解不能なあなたが思惟する《存在》といふ大海にぽつねんとあなたがしがみ付く、うふっ、あなたにはそれしか出来ないよね、その《存在》といふ大海であなたがしがみ付く浮き袋の如く、貴方の思惟の中心に居座ってしまったのが《杳体》ね。それでやっと、あなたは此の世を生き延びてゐるのだわ。
――それは雪さんの言ふ通りだな。この《杳体御仁》たる「黙狂者」は、最早、《存在》といふ未だ深い霧に包まれたままの大海でこの《杳体》といふ浮き袋無しには、一時も生きてられやしない。
と、君が私を見詰めながらさう言ったのであった。すると、雪が君に、
――では、あなたに伺ひますが、彼が黙すると同時に《杳体》といふ訳の解からぬ観念が彼の内部に生じたのではありませんの?
――ああ。多分、雪さんの言ふ通りだ。或る日、彼は、忽然と《杳体》といふ名ばかりの観念が棲み付いた刹那、かれは去来現無くしては語る行為は不可能な、言語に内在する去来現の時の移ろひを喪失した代はりに《杳体》といふ観念を、哀しい哉、手にしてしまった。
と君が言ったのであった。
――ねえ、あなた、それは何故なの?
と、雪が私に訊いたので、私は、かうNoteに書き記したのであった。
作品名:審問官第二章「杳体」 作家名:積 緋露雪