審問官第二章「杳体」
――すると、あなたにとって《存在》はそもそも不合理でしかないといふの?
――ああ。つまり、《存在》は、つまり、何何系として、つまり、統合されて、つまり、秩序立てて、つまり、《存在》は、つまり、《存在》する外ないのだが、つまり、その《存在》の、つまり、秩序を、つまり、秩序足らしめるべく、つまり、《他》を、つまり、殺害する。つまり、《存在》は、つまり、それが《存在》する事で、つまり、《他》の殺害が道理となる故に、つまり、此の世といふ名の、つまり、自然は、つまり、私にとっては、つまり、不合理でしかないのさ。
――それがあなたの《存在》に対する、いいえ、違ふはね、ええっと、此の宇宙ね、あなたは此の宇宙に反旗を翻した根本の理由がそれなの?
――いや。つまり、それだけではないさ。つまり、《存在》する事の、つまり、《存在》は、《吾》が何たるか、つまり、全く雲を摑むやうに、つまり、全く解からず、つまり、仕舞ひで、つまり、それでも、つまり、《吾》は、つまり、《吾》として、つまり、《吾》が死滅するまでは、つまり、それが仮令未来永劫に亙ってゐようが、つまり、《吾》はずっと、つまり、《吾》であり続ける事を、つまり、「先験的」に、つまり、定められてゐる。つまり、そして、つまり、その理由は、つまり、ボブ・ディランの「風に吹かれて」ぢゃ、つまり、ないけれども、つまり、そのやうにしか、つまり、此の《吾》といふ《存在》を、つまり、《存在》とは言へない、つまり、《存在》する《もの》の、つまり、もどかしさの淵源が、つまり、此の宇宙の、つまり、《神》の別称かもしれぬ、つまり、此の宇宙にはあり、つまり、もしかしたならば、つまり、此の宇宙は、つまり、それ故に、つまり、《吾》は、つまり、《吾》として、つまり、《存在》し続け、つまり、その上に、つまり、この《吾》といふ、つまり、《存在》は、つまり、絶えず、つまり、何かへと、つまり、変容する事をも、つまり、強要されてゐて、つまり、それは、とんでもなく、つまり、理不尽な事だらう?
――そのための叛旗の旗幟が《杳体》なのね?
――ああ。つまり、さういふ事だ。
――でも、それは《杳体》と高く掲げた旗幟と共に此の宇宙の摂理に反旗を翻した処で、この《存在》の得体の知れなさ故に《吾》が掲げた《杳体》は端から此の宇宙の摂理に敗北する事は解かり切ってゐないかしら?
と、雪は、その刹那に瞳を一際ぎらりと輝かせ、しかし、頬には涙の流れた跡を手で拭った跡が付いたままで、しかし、きりりと私に問ふたのであった。
すると、
――一方で、夢は既に此の宇宙といふ途轍もない《存在》を震へ上がらせるには、その能力の限界が知れてしまったと言ふのさ、この「黙狂者」は。
と、文学青年の丁君が苦虫を噛み潰すやうにぼそりと言ったのであった。すると、雪が、
――どうして? 此の宇宙へ反旗を翻すのに夢が無力だなんて、それぢゃ、素手で武装した傭兵と戦ふに等しい愚行だわ。夢こそがあなたの言ふ《杳体》を支へる大黒柱になるんぢゃないのかしら?
――つまり、それは、つまり、埴谷雄高が試みたが、つまり、失敗してゐるのを、つまり、見れば、つまり、夢なんぞは、つまり、此の宇宙には、つまり、屁でもないのさ。
――しかし、夢を《杳体》の此の宇宙に対する武器として不使用とする理由が、まだ私には今一つ解からないわ。
――つまりね、「黙狂者」の彼にとっては夢は思惟を超えられないからさ。
と、ヴァン・ゴッホ気狂ひの甲君がにやりと嗤ひながら言ったのであった。
…………
…………
ねえ、君。あの当時私が無鉄砲に、しかし、用意周到に掲げた《杳体》なる《もの》は、その後、どうなったと思ふ? へっ、正直に言ふと、何の事はない、相変はらず杳として得体の知れぬまま、私のこの頭蓋内の闇と瞼を閉ぢた時の瞼裡に生じる薄っぺらな闇との間を、恰も永久運動する巨大な振り子時計の振り子の如く、自在に行ったり来たりしながら、
――《吾》、《杳体》為れり!
と、私は自身に向けて愚劣な苦笑ひを浮かべて、尚も、青年にありがちな、どこか夢見ながら実態が伴はない、何とももどかしいその《存在》をじっくりと堪能する外にない、つまり漠とした己を敢へて規定せずに、唯、抛りっ放しのままその《存在》の屈辱を唯唯、噛み締める外ないどん詰まりのままなのは相変はらずなのさ。嗤っちまふだらう? 口惜しいが、それが摂理といふ《もの》で、私が今、不治の病に呻くのもまた、愚劣極まりない此の世の摂理だ! 口惜しいがそれは認めるしかない。
…………
…………
――えっ? 夢が思惟を越えられないですって? それは逆ぢゃないかしら。夢こそが思惟を飛び越えられる唯一無二の《もの》であって、《存在》に「先験的」に賦与された如くに此の世に《存在》する《もの》は己の《存在》を自問自答する宿命にあり、また、此の寂滅する外ない此の世の森羅万象が、唯一、此の自然、若しくは神の摂理に反旗を翻せる《もの》こそ夢な筈だわ。
――言ふね!
と、雪の言葉に対してヴァン・ゴッホ気狂ひの甲君が、うれしくて堪らないといった満面に微笑みを浮かべて茶茶を入れたのであった。雪はそれに対して軽く笑みで返しながら、
――ねえ、あなたは何故に夢が無力と看做すの?
――多分、此奴は、夢もまた入れ子状のFractal(フラクタル)な構造をした此の世の摂理に忠実な何かとしか看做せなくなったのだと思ふよ。
と、君が言ったのであった。
――それは、あなたもさう信じてゐるのですか?
と、雪が君に尋ねたので、君は、
――いや、何ね。私は無責任かもしれないけれども、私には、何にも解からないのさ。
――いいえ、それこそ夢に対する自然な考へだと思ふわ。ねえ、あなたは、何をもって夢が、《存在》が《存在》を問ふ時の此の思惟を越えられない無力な《もの》と看做すやうになったのかしら?
さっきまで、自身に一生消せない悪夢に涙を流してゐた雪の顔には再び誰もが魅入られるに違ひない微笑みを浮かべながら、私に尋ねたのであった。
――いや。つまり、私は、つまり、夢を、つまり、《存在》する《もの》が、つまり、己の《存在》を問ふ時に、つまり、全く無力だなんて、つまり、言った覚えは、つまり、ない。つまり、唯、つまり、現在では、つまり、夢は、つまり、余りにも、つまり、背負ひ切れぬ《もの》を、つまり、背負はされ、また、余りに、つまり、夢は濫用されてゐて、つまり、夢が、つまり、本来持ってゐる、原初的でぶっきら棒な突破力を、つまり、喪失しちまってゐる。
――さうかしら。確かに現在、夢の濫用は目に余る《もの》があるわ。しかし、《存在》を問ふ時、夢を無視するのは、《存在》を半端な《もの》へと堕落させる陥穽に、《存在》を何か堕落した《もの》へと落とす虚無主義的な何かでしかないわ。
その雪の言葉を聞きながら、私は其処でゆっくりと瞼を閉ぢ、その瞼裡が現出する薄っぺらな闇を、そして、その視界の周縁を、つまり、その薄っぺらな闇の周縁を今もってぐるりと巡ってゐる、勾玉の形をした光雲をぢっと暫く凝視してから、徐に瞼を開けて、Noteにかう書いたのであった。
作品名:審問官第二章「杳体」 作家名:積 緋露雪