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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第二章「杳体」

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――はい。ヰリアム・ブレイクが不死なる《もの》の宿命を語るやうに、現在ある全学問を以てしても不死なる《もの》の出現は不可能で、いや、癌細胞がありますね。まあ、それはそれとして、つまり、「現存在」に対して《不死》なる《もの》は全くの無力だと言ってゐるに過ぎません。つまり、「現存在」の知は全て《生》に帰すのみで、《死》へ帰す《もの》は学問から外れてゐます。
――そんな事ありませんわ、丙さん! 《死》に関する学問は数多あるぢゃありませんか?
――しかし、それらは、《生》から《死》へ至るその過程に関する《もの》でしかありません。《死》の後の学問体系は学問に非ず、Occultになってゐます。
――それは健全な事ではありませんの?
――いえ、それは《死》への冒瀆でしかありません。
 と丙君が言ふと、甲君が、
――そんな事ないぜ、丙君。《生》にとって《死》は何時の時代でも摩訶不思議な《もの》でしかない。だから、つまり、《死》が摩訶不思議故に宗教が出現したのではないかね?
――つまり、甲よ。此の世に神学や宗教学や民俗学があると言ひたいのか? しかし、それらは、全くの処、《生》の学問でしかないぜ。
――さうしますと、甲さんも丙さんも「《死》学」なる学問がなければ、《存在》は、いいえ、《杳体》は捉へられないといふ事ですわね、うふ。
 と雪が言ふと、猊下たる丙君が、
――医学や生物学の外に、《死》を科学的に扱ふまさに雪さんが仰った「《死》学」がなければ、学問は、詰まる所、《生》にとってのみの未成熟なままの学問体系でしかない――ふむ。甲よ、お前はどう思ふ?
――さてね。しかし、死に様に《生》と《死》の全てが現はれているかもしれぬぜ。
――あら、甲さん、また私を煙に巻かうとしてゐるのですか?
――いえいえ、滅相もない。唯、「《死》学」とは面白いと思っただけです。一つ雪さんにお伺ひしますが、《死者》は死後もずっと《存在》すると、つまり、霊魂は《存在》するとお考へですか?
――はい。私はさう思ってゐます。
――それはまたどうしてですか?
――反対にお伺ひしますが、甲さんはどう思っていらっしゃるのですの?
――へっ、私は、《死者》が、霊魂が《存在》してもしなくても、どっらでもいいのです。
――それでは、《杳体》なんぞ見出せる筈がありませんわよ。
――さうでせうか? 所詮、《生者》にとって《死》は摩訶不思議な事象でしかなく、《死》に関しては世界各地に神話として物語化され残ってゐますが、私にとって《死》はそれで十分なのです。
――つまり、《死》は、土台、科学的に扱ふ事は不可能といふ事ですの?
――いえ、《杳体》が仮に補足出来れば、《死》もまたたちどころに明瞭になる筈ですから。
――つまり、《生》を更に突き詰めて行けば、科学的、医学的、生物学的、神学的、宗教学的、民俗学的などなどにおいて、《死》もまたくっきりとその相貌が浮き彫りにされる筈といふ事ですの?
――はい。さうぢゃなきゃ、誰も学問なんぞに現を抜かしませんよ、ふっふっ。
――つまり、甲さんは《生》を突き詰めれば、其処には必ず《死》が現はれるとお考へですの?
――はい、私は、《生》とは此の世の森羅万象においては一つの奇蹟と看做してゐるのです。《生》はそれが何であれ、《死》と紙一重にありながら《死》を超越して《存在》してゐる事を断じて知ってしまはなければなりません。それは「現存在」ばかりでなくこの世界に満ち溢れる多様性に満ちた生物全てに対しての事です。でなければ、如何なる生き物の産まれたての赤子があれ程に愛くるしい筈はないのです。
――さうねえ、甲さん。赤ちゃんの可愛らしさと言ったならばそれはそれは筆舌尽くし難い《もの》ですわね。
――しかし、赤子が、例へば「現存在」たる人間の赤子は虐待されて殺される場合が少なくなく、へっ、もっと言へば、赤子に対する虐待は日常の一風景に過ぎず、つまり、赤子を可愛らしいと看做せるのは大概が第三者の見方であって、育児に当たってゐる当事者にとっては、赤子の愛くるしさは一時の安らぎを与へるかもしれませんが、その生態は母子共に死闘です。また、赤子は、病魔に襲はれる事もしばしばです。それでも生き永らへて成人となり、その《生》を全うする《存在》は、それだけで奇蹟としか言へません。
――うふっ、甲さんてロマンティストなのね。
――甲は優しすぎるのです。
 と丙君が雪に微笑みながら言ったのであった。そして、甲君は更に続けて、
――この《生》といふ《もの》が《死》と紙一重でしかない事のその理由は何だと思ひますか、雪さん?
――さうねえ……、《生》が《生》である事のその壮大な世界観を、《死》をも包含する形で生み出す為ですかねえ、うふっ。
――《生》の世界観、つまり、それは世界認識の事ですね?
――はい、さうです。
――ならば、何故に《生》は世界認識を強ひられるのですか?
――あら、甲さん! 《生》は己が生きてゐる世界を知らずば、一時も《生》は存続出来ませんわ。いえ、違ふわねえ。《自然》が何であるのかを知らずとも《自然》は《生》の揺り籠ですわねえ。でも、《生》は《生》として此の世界に存続するには多少に拘はらず《生》の作法が厳然と《存在》しますわ。そして、それは《生》が此の世にどれだけ巧く適応するかといふ生存の戦略として世界認識は必須ですわ。
――それでは例へばキルケゴールが謂ふ「単独者」それぞれの世界観は全「単独者」で共有出来る《もの》とお考へですか?
――「単独者」が皆等しく学問を学んでゐれば、世界認識の礎の処では共通してゐるのではないですか、甲さん?
――その学問が、それでは全て《インチキ》だとすると?
――甲さんはどうしても学問を《インチキ》にしたいのですね?
――ええ、私に言はせれば《生》は此の世に《存在》する限り、《生》と《死》すら包含する巨大な巨大な巨大な世界観といふ大《インチキ》を育むその母胎として《生》は《存在》してゐると考へてゐます。
――つまり、それは《生》といふ《もの》が絶えず出合ふ現実は邯鄲の夢でしかないといふ事ですの?
――はい。現実といふ《もの》が邯鄲の夢であってもびくともしない世界認識を《生》たる《もの》が生み出せるか出せないかの瀬戸際に絶えず追ひ詰められてゐるのが、《生》たる《もの》の本質なのです。
――本質ですか。さうしますと、甲さんによれば、現在の生物多様性は、それだけで多様な世界認識の仕方が《存在》し、また、「単独者」の数だけ、否、既に死んだ《もの》も含めて、それぞれに独自の世界認識の仕方があり、そして、その個性あふれる世界観を矯正し統合した《もの》が学問といふ《インチキ》な《もの》であって、しかし、その学問は何時の時代もその正否が書き換へられてゆく、うふっ、甲さん流に言ひますと、大《インチキ》にしかならないといふ事ですの?
――はい。雪さんは聡明な方ですね。私に言はせると《生》は絶えず学問体系を書き換へるべく、此の世に《生》を享けたに違ひないのです。それ故に、「単独者」、若しくは「現存在」、若しくは全生物は、それぞれ学問から外れた個体独自の原初的な世界観を何としても生み出さずば、《死》に呑み込まれる運命なのです。