審問官第二章「杳体」
――それは、つまり、《存在》の淵源は《非在》であるといふ事ですの?
――さうです。《存在》する《もの》は初めは《存在》してゐなかった《もの》ばかりです。つまり、《存在》する《もの》は堕天使が天使の頃を渇仰せずにはをれぬ故に悪行を為さざるを得ぬのですが、しかし、それは、ゲーテの『ファウスト』のメフィストフェレスの言、つまり、『常に悪を欲して、常に善を為すあの力の、一部です』に収斂するやうに、《存在》は常に《非在》を欲して、常に《存在》を打ちのめす外ない此の《吾》の《存在》の有様こそ、《存在》への渇望に違ひないのです。
――つまり、甲さんは、《存在》する事自体が既に不合理といふ事なのですね?
――はい。《存在》はどうあっても不合理でしかありません。
――では、《存在》が《吾》の撲滅を渇望せざるを得ぬのは、「先験的」に《存在》に賦与された《もの》といふ事ですの?
――はい。《存在》する《もの》は「先験的」には《未出現》が最も安寧な状態なのです。
――では、何故に《存在》が《未出現》のままぢっとしてゐられなかったのですか?
――《未出現》は永劫の時間の中で、或る時、不意に《未出現》なる《吾》を発見してしまった。それが《未出現》の運の尽きです。
――つまり、《未出現》に《吾》を見出してしまった《未出現》は、一時も《未出現》である事に堪へられず、《吾》といふ《存在》を《出現》させてしまったと?
――はい。
――甲よ。すると、《存在》は《未出現》へと常に憧れてゐるといふ事かね?
と、丙君が容喙したのであった。
――へっ、丙君こそ如何とも度し難い《吾》を何と規定してゐるのかね?
――ゲーテの言ひ振りを真似ると『常に《吾》を欲して、常に《吾》を殺すところの、一部です』となるかな?
――それは先に私が言ってゐるがね、丙君?
――いや、甲が言ったのは《存在》についてであって、其処に《吾》は未だ《未出現》だった筈だが。
と再び眼光鋭く猊下たる丙君が甲君に訊いたのであった。
――へっ、丙君はもう忘れちまったやうだね。私は、先に《吾》といふ《念》は、何に対しても先んじて《存在》すると言明してゐる筈だが、ふむ、しかし、へっ、吾ながら自分の言ってゐる事が矛盾してゐるかな。一方では何にも先んじて《吾》といふ《念》が《存在》すると言ひながら、一方では《未出現》が不意に《未出現》に《吾》を見出したといふのは、吾ながら矛盾してゐるかもしれぬ。へっ、しかし、かう考へれば全く矛盾してゐないに違ひない。つまり、《吾》といふ《念》は《未出現》が《非在》のままの時も、《未出現》の《もの》はそれとは気付かずに確かに《吾》は《存在》してゐたと。
――甲さん、それは《吾》といふ《念》は、《吾》といふ《念》が《存在》してゐる事を何《もの》かに気付いて欲しかったといふ事ですの?
――はい。しかし、《吾》は未来永劫見出されるべきではなかったのですがね。
――しかし、《吾》は見出されてしまひました、甲さん。これは一体何の暗示なのですか?
――つまり、《杳体》です。
――甲よ、《杳体》とは物理学でいふ暗黒物質ではないのかね?
――暗黒物質は《杳体》の一部でしかないぜ。
――それは何を以てしてさう言ひ切れるのかね、甲よ?
――暗黒物質もまた《存在》してゐるからさ。
――ふむ。甲よ、もしかするとお前の言ふ、否、この「黙狂者」が言ふ《杳体》は、此の宇宙の容れ《もの》の事ぢゃないのかね?
――それも《杳体》の一部に過ぎぬ。
――すると、《杳体》は仮象のまさにその先に仮象される此の世の姿といふ事かね?
――丙さん、仮象のまたその先の仮象とは一体何の事ですの?
と雪が丙君に訊くと、丙君は、
――つまり、此の世の森羅万象がこれまでに何《もの》も考へすら及ばなかった或る種の世界観の事です。
――丙君、そんな説明ぢゃ、雪さんには何の事か解からないぜ。
――いいえ、甲さん、丙さんの説明で朧に《杳体》の何たるかは薄らと浮き彫りになりました。
――すると、雪さんは《杳体》を何と解釈したのですか?
――彼の世を包摂した《未出現》のまま此の世には決してその姿を現はさない或る《世界》の事ではないでせうか?
――彼の世もまた此の世の森羅万象から一歩も踏み出せないとすると、《杳体》はどうなりますか、雪さん?
と甲君が雪に訊くと、雪は、
――それならば《杳体》は彼の世といふ《もの》にその《存在》の尻尾を出している筈ですわ。
――つまり、雪さんにとって《死》が《杳体》の入り口だとの理解ですか?
――はい、甲さん!
――雪さん、それぢゃ、《杳体》を矮小化してしまってゐます。
――あら、どうして?
――何故って、《死》が《杳体》の入り口ならば、此の《世界》には此の世と彼の世があれば十分で、「現存在」はその摂理に従順に従へばいいだけですが、しかし、「現存在」はどうあっても此の《吾》といふ《存在》に我慢がならないと来ている。つまり、《杳体》の入り口は、此の《吾》なのです。
――《吾》ですって!
――はい。《吾》が《杳体》の入り口であり、そして、出口でもあるのです。
――甲よ、それは僭越といふ《もの》だぜ。
と丙君が言ふと、
――しかし、甲君の説は一理あるぜ。
と文学青年の丁君がぼそりと呟いたのであった。
――乙さんは、数学専攻なので、お訊きしますが、乙さんは《杳体》を数学的見地からどの様に位置付けていますの?
と雪が乙君に訊いたのであった。すると、乙君が、
――虚数iの零乗、若しくは零の零乗なのではないかと私は疑ってゐます。
――虚数iの零乗、そして、零の零乗は《一》ではないのですか?
――その通りなのですが、その《一》こそ《杳体》の尻尾ではないのかと考へてゐます。また、虚数iのi乗は実数である事もまた、《杳体》のその尻尾だと思ひます。
――つまり、虚体が虚体を仮象すればそれは実体といふ事ですの?
――さうですねえ。虚体が虚体を仮象するですか、ふむ。丙君はとう思ふ?
――解からぬといふのが本当の処だが、虚体が虚体を仮象するとは言ひ得て妙な面白い考へ方ですね。雪さんは、埴谷雄高の『死霊(しれい)』は読まれてゐるのですね?
――はい。『死霊』を初め、様様な作品を読んでは思索に耽っています。ヰリアム・ブレイクに出合ったのは埴谷雄高からです。
――さうですか。すると、雪さんは虚体が虚体を仮象すれば必ず実体が現はれ、それが《杳体》の尻尾に違ひないと目星を付けたのですね?
――はい。その入り口にヰリアム・ブレイクの幻視があると思ふのです。
――私は未だヰリアム・ブレイクを全て読んだ訳ではないので断言は出来ませんが、成程、ブレイクの預言書など、此の世の森羅万象の摂理をぶち抜けた何か切迫した感じはありますね。しかし、それは《杳体》を暗示してゐるに過ぎません。虚体が虚体を仮象するといふ事は、はっきり言へば《インチキ》でしかありませんが、「現存在」にとってその《インチキ》なくしては一時も生きてられはしないのです。
――それは何故ですの、丙さん?
――例えば、現在ある全学問体系が全て《インチキ》だと考へた事はありませんか?
――何を仰るのでか、丙さん! 全学問が《インチキ》ですって!
作品名:審問官第二章「杳体」 作家名:積 緋露雪